獄中の聖者−多くの死刑囚を救ったカルバリ会創設者− | |||||||||||||||||||
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浦河正三1905.01.07 - 1958.04.14職業:農業 熊本県飽磨郡芳野村(現:河内村)生まれ。 20才で海軍に入るが、窃盗で懲役5年(軍法会議)となり、退団後は窃盗・強盗・強盗傷人など前科3犯となる。 |
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−概要−K油脂株式会社に偽名でヒマの実の取引を持ちかけ、女社長と専務に10万円の小切手を持参させ、菱形村と芳野村の境にある三の岳山頂付近に誘い出し、まず専務の胸に刃物を突き刺し、驚いた社長がその傷に手を当てると、今度はその社長の胸に刃物を刺し、さらに専務の首筋や顔面に何回も刃物を突き刺して二人を殺害。小切手及び財布等を奪った。その後、会社に社長名義で「翌日帰る」という電報をうって偽装し、小切手を換金した。 警察は社長の取引相手が実在しないことを知ると、取引相手とされる者の住所(某開拓団)の素行不良者を洗っていくうち、浦河の容疑が濃くなり、さらに電報の頼信紙の筆跡から容疑を浦河と断定した。 警察は浦河を逮捕するが、浦河は頑強に黙秘し、自白したのは送検されて、その拘留期間の最終日だった。 −裁判−熊本地裁で死刑。控訴・上告するが結局上告も棄却され、死刑は確定する。 なお、彼の上告段階での弁護士の上告趣意書は「上告の理由はない」という異例のものだった。 −獄中で−入信彼が拘留された直後、小学校時代の同級生が面会にやってきた。 彼はカトリックの神父になっており、彼の話を色々聞いたりした。すると、浦河の凝り固まった心は、少しづつ解きほぐされ、やがてカトリックに入信していった。 カルバリ会の創設 彼は上告中に山口という死刑確定者と出会う。若い山口は、死の恐怖に耐えかねているようだった。 彼は山口をキリスト教に入信させることで、死の恐怖から救っていった。その後、山口は最後の日に、晴れ晴れとした様子で刑場へと去っていった。 彼は山口や免田氏(第四話)、須藤(第五話)のような若い死刑囚が死の恐怖に怯える様を、見過ごすことは出来なかった。そこで、死刑囚を死の恐怖から解放するために、キリスト教の神父や牧師、外界の有志などの協力を得て説教を行ったり、獄中布教にさいしての組織化を行った。これは、獄中では色々制限があったため、特殊な組織化(例として、説教筆記の回覧など)を行う必要があったのだ。 1952年6月、こうしてできた死からの救済のための会を「カルバリ会」と名づけた。カルバリとは、キリストが磔にかけられた「ゴルゴダ」の丘のラテン語読みである。 獄中での活動 また一方では、同囚が困ったときの相談に乗ったり、救いの手さしのべたりした。 須藤が、浦河が主催する説教を揶揄したり、同囚や看守にケンカをうったりしたため、孤立していたのを、心痛めて、ある方法を使ってキリスト教に興味を持たせて入信させ、孤立や投げやりの気持ちから救ったのも浦河だった。 また、カルバリ会の活動は浦河達が収監されている福岡の藤崎拘置所だけでなく、他の刑務所やライ病施設、結核の療養所、盲者にも広がり、彼を慕う人間は増えていった。 その結果、彼の布教活動は外界の人々にも知られるようになり、国内外で著名人を含む知人が増えていった。 再審活動 一方で彼は再審請求をしていた。 第一次再審請求を熊本地裁は棄却したが、浦河の即時抗告にたいし、福岡高裁は差し戻し決定する。 差し戻し審理でも再審請求棄却。二度目の即時抗告は棄却。特別抗告(最高裁)も棄却された。 あきらめずに第二次再審請求。これも地裁・高裁で棄却され、最高裁でも棄却されたのは1957年10月22日。 最後 翌年は2月末から処刑が相次ぎ、4月14日彼はこの年5人目の処刑者となる。 「神の国に行くのだ」という態度で最後のときに臨んだそうである。 享年53。 |