主犯と従犯−凶悪犯の身代わりになった死刑囚− | |||||||||||||||||||
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須藤正一1931.6.25 - 1953.3.27職業:無職 満州国奉天市で育つ。 父親は戦前の国策会社の社員で、ソ連に抑留されて行方不明。 母親は同じく終戦の頃、病死した。 彼は小さい弟と幼い妹を連れて日本に引き揚げるが、妹を育てきれず栄養失調で死亡させる。 福岡の伯父を頼るが、間もなく家出し、職を転々とする。 |
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−概要−知り合った「トウさん」という中年と福岡市・八幡市でバタ屋を絞殺し、計8600円を奪った。7月に須藤は逮捕され、トウさんは行方不明のままで起訴される。 −真実は?−刑事裁判資料では、須藤が首を絞め、共犯(トウさん)が殺害したという苦しい書き方をしている。須藤は首を絞めたが、殺さなかったということか? また、トウさんが出所後に再犯を犯したときに、「須藤は見ていただけ。あんな若造に人が殺せるか」と言っている。 殺し方も、トウさんが再犯で多用した「担ぎ屋スタイル」という絞殺方法である。 さらに、トウさんは前科持ちの中年で、須藤は初犯の少年であるという事実も見逃せない。 一方、免田栄氏は須藤に再審の相談をされたときに、「(被害者の)家の前で(トウさんに)頼まれて立っていただけ」と言っていたという。 私は、少なくとも須藤は主犯ではないと考える。 前科を持った中年を、初犯の少年がリードできるとは思えない。 −裁判−共犯行方不明のまま、福岡地裁で死刑判決。控訴も棄却された。51年の末頃から拘置所では「サンフランシスコ平和条約締結に関する恩赦」の話題で盛り上がる。 曰く「恩赦の対象になるのは刑が確定している者に限られる。」 これにより全国で上訴を取り下げた者は大勢いた。 恩赦は4月28日に出されているので、須藤もこれを期待して上告を取り下げた可能性が高い。 −確定後−結局恩赦は彼のもとには来なかった。死刑確定者に対する対象は殺人もしくは尊属殺人により死刑が確定した者であり、強盗殺人で確定した彼は対象外だったのだ。 彼は荒れた。 同所の死刑確定者が礼拝しているのを嗤ったり、刑務官に食ってかかったりして、次第に孤立していった。 さらに唯一の家族である弟は、伯父が会いに行くのを許さなかったため、会えなかった。 唯一の人との繋がりは、小学校の同級生だったNとの手紙のやりとりだった。 彼はキリスト教を信仰しており、不幸な状況にある須藤に金や聖書の言葉を葉書に書いて差し入れていたのである。 しかし須藤は葉書を読まず、Nをだまして「最低限の生活に困っているから」といって催促した金を無駄に食物を買って消費していた。 それを見かねた同所のある死刑囚が、Nに真実を知らせると共に、Nの書いた葉書を須藤に読ませた。 須藤の心境に変化が現れ、Nには嘘をついていた詫び状をだし、礼拝にも積極的に出るようになった。 須藤の行状が変わった事を伝え聞いた伯父は、須藤の弟を須藤に会わせる事を許した。それによって、須藤は弟と最後の面会を果たすことができた。 53年3月27日、須藤は処刑された。享年21。 −トウさん−トウさんの正体は渋谷東一という、窃盗・恐喝・強盗など前科6犯の事件当時37才の男だった。渋谷は須藤と別れた後、翌年3月に恐喝未遂事件をおこし、「清水定夫」という偽名で懲役3年の実刑判決を受け、加古川刑務所に入所。 53年9月に仮出所するが、すぐに兵庫県姫路市で窃盗事件で逮捕。 このときは偽名が通用せず、旧悪(強盗殺人)も発覚した。 裁判にかけられるが、従犯を主張して懲役10年で済んでいる。刑事裁判資料では、どう見ても共同正犯なのに、量刑に大きな差が出た。 これは、共犯である須藤が渋谷の公判時に死亡していたため、渋谷の罪を立証できなかったためであるが、共犯未逮捕なのに須藤を処刑した司法のミスである。 55年6月16日、福岡地裁で懲役10年。 55年10月27日、福岡高裁で控訴棄却。 56年2月3日、第二小法廷で上告棄却され確定。 (第九話に続く) |