幻の再審開始−一度は破られた再審の夢− | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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免田栄1925.11.4 -職業:無職 熊本県免田町に生まれる。 戦後最初に冤罪で出獄した元死刑囚。 彼の後、谷口繁義(財田川事件)・斉藤幸夫(松山事件)・赤堀政夫(島田事件)が続いていくことになる。 事件当時は人吉市内の旅館で女性と共に宿泊していた。 |
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−概要−1948年12月29日、熊本県人吉市の祈祷師一家が何者かに襲撃され、主人夫婦が死亡。二人の娘は負傷し、現金が奪われた。犯人目撃者である娘は、犯人は国防色軍服を着ていたと証言した。 −時代背景−自白偏重の旧刑事訴訟法(旧法)から、現在の刑事訴訟法(新法)に変わったばかりのころで、刑事達はその切り替えができていなかった者が殆どだった。つまり、被疑者から自白をとるのに躍起だったのが当たり前の時代だった。 さらに警察は、「自分たちはお上」という認識が強く、事実免田は刑事に「俺達は天皇に任命された警官だぞ!この土百姓め!」と言われたことからも伺える。 −取り調べ−免田のアリバイを証明してくれる旅館の女性は、売春が許されない年齢であり、それを知ったT刑事は、「売春の件は目をつぶるから、免田のアリバイを証明するな」と説得していた。さらに言えば、T刑事と女性の母親は知り合いで、以前からこの売春を黙殺してもらっていたという関係もあった。さらに警察は免田が面会を求めた別の証人には面会させず、その証人を脅した形跡もある。 警察は自白内容と目撃証言の操作も行っている。例えば犯人の服装は黒ハッピに地下足袋と変更したことなどである。 一方、免田自身は完治していなかった病気が寒い部屋での取り調べなどでぶり返し、熱を出したり意識がもうろうとしたりで、とても刑事に逆らいうる健康状態ではなかったのである。 さらに、否認を続けると、「銃(猟銃)を持っていたことをGHQにバラして、親子ともども米兵に銃殺してもらうぞ」と脅す。 これが免田にとってとてもこたえたらしい。本当はそんなことにはならないのだが、法律に無知だった免田にはそんなこと知る由もない。 結局6日間の取り調べで自白してしまう。 −裁判−49年4月14日の第三回公判に免田は初めて裁判で犯行を否認する。それまでは警察や検察に自白内容を翻すな。さもなくば死刑だと脅されていたためだ。 この否認で一審の木下春雄裁判長は気分を害したらしく、顔を真っ赤にしたようだ。 結局、判決は死刑。控訴・上告も棄却され、52年1月5日に死刑が確定した。 −確定後−再審ある日、米国人の神父が「再審をやって長生きしている人が居る」という話をしたのをきっかけに、免田は再審への道を進む。 再審請求の方法は共産党関係で拘置されていた被告から教わった。 一次・二次の再審請求は書類の不備ということで却下された。 ある死刑囚の関連から弁護士もついて、第三次再審請求を申し立てたのは54年5月である。 当時の再審担当判事は、 裁判長:西辻孝吉(民事担当) 右陪席:森岡光義(家事・少年専門) 左陪席:森永竜彦(任官二年目) で構成されていた。 彼らは自白調書と公判供述のズレ、免田のアリバイに関わる証人の供述の変化などに注目し、調査に乗り出した。 公判廷に出なかった検察資料や証人喚問、現場検証などを行い、免田の証言した足取りを裏付けた。 三人の判事は「免田を犯人とする証拠はない」という点で一致した。 問題は今まで集めた未開示記録及び接待婦の新証言は、再審開始の要件である「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」となるかである。 数日の合議の結果、56年8月、免田のもとに 主文 再審を開始する 死刑の執行を停止する と書かれた分厚い書類が届いた。 西辻自らが書いた152ページにおよぶ再審開始決定書(西辻決定)である。 これに対し、熊本地検八代支部は福岡高裁に即時抗告を申し立てた。 結果は「事実調べの範囲を逸脱している」「新たな証拠とはいえない」という再審開始取消判決だった。 免田は最高裁に特別抗告申し立てをしたが、棄却され、第三次再審請求も敗北に終わった。 免田の再審開始が確定するのは、それから21年後である。 |