生死の分け目

−同じ事件で方や死刑、方や恩赦−

西武雄

1915.5.1 - 1975.6.17

職業:芸能社経営
元海軍少佐

石井健治郎

1917.2.27 -

職業:ブローカー
元工兵軍曹


西と石井は事件の直前に知り合ったばかりだったらしい。石井は銃器を大量に所持していた。

事件以後
事件 1947.5.21
福岡福岡
強盗殺人
死者2
(福岡事件)
一審 1948.2.27
福岡地裁
死刑
二審 1951.4.30
福岡高裁
死刑
三審 1956.4.17
第三小法廷
棄却
没(西) 1975.6.17
福岡拘置所
死刑執行
決定(石井) 1975.6.17
福岡拘置所
恩赦減刑


−概要−

西は中国人ブローカーから旧日本軍の軍服千着を売るという偽りの取引で金を入手しようとする。その詐欺に平行して詐欺の仲間・黒川のシマ争いによるケンカの話があった。黒川は拳銃が必要だと西にいい、西の知り合いを介して石井が登場する。
石井は黒川からケンカに必要なので拳銃を売ってくれと頼まれ、拳銃を渡した後、代金の受け取りのため黒川についていった結果、被害者の二人に出会い、そのうちの一人が内懐に手をやったのを見て、ケンカに巻き込まれ殺されると思い、とっさに二人を射殺した。
黒川は詐欺計画を実行中に、石井がいきなり相手と仲介者を射殺したので、驚いて逃走した。
結局、石井は詐欺計画を知らず、詐欺の被害者をケンカ相手と勘違いして殺してしまったということらしい。
なお、西は事件当時、被害者の仲間と食堂で取引の話をしていた。
事件後、結末を知った西は石井を難詰するが、石井は「ケンカで殺されると思った」と弁解するばかり。結局、事件に関わった人間は一旦逃走するものの、全員逮捕されるに至る。

−裁判−

裁判官の認定は、以下のようなものだった。
西は架空の取引で金をだまし取ろうと計画し、もし詐欺が成功しない場合、相手を皆殺しにしてでも金を強奪しようと計画した。
事件当日、まず黒川が2名を誘い出し、西は残りの人たちを誘い出して逐次相手を殺してその所持金を奪うよう計画の詳細を黒川・石井らに伝えた。
被害者らと取引を始めた西たちは、前金を受け取ったあと、残金の支払いを要求したとき、相手が現物と引き替えであることを主張したとき、計画通り相手を逐次殺して現金を奪うほかないと考えた。
・・結果、相手1名と仲介者を殺害した後、相手方の残りの人たちに残金の支払いを強要したが、拒否されたため、目的を達せず各被告人は逃走した。

計画及び、計画の実行の意思はかなり強固であることが認定されているが、結果は残金支払いを拒否されただけで皆殺し計画を放棄している。

裁判には被害者の友人であり、戦勝国民である中国人がやってきて傍聴する。

裁判長は戦勝国民に対して気兼ねして、まともな審理をしない。
判決の際、被害者の友人達が、「全員死刑にしろ」と言ったのに対し、裁判長は「二人で勘弁してください。」と言っている。

審理方法にしても問題がある。
裁判長は、被害者の友人に対する証人尋問の際に、
「ああでしょう?こうでしょう?」
西らを有罪にするような証言を得ようと同意を求めるように聞き、証人としても友人が殺されているから、「そう思う」というと、
「そうですとも」
と、我が意を得たりというように応じることも多かったようである。

極めつけは、西と石井の間の謀議の様子の認定である。

石井「私が西との強盗の謀議に、いつ荷担した?」
裁判長「旅館でした」
石井「我々が旅館でどういう話をしたか確認してほしい」
・・結果は旅館で強盗の謀議をしたことを立証できなかった。
裁判長「じゃあ、道中でしたろう」
石井「私は道中、西とは歩いていない」
裁判長「じゃあ殺害現場でしたろう」
石井「西は殺害現場に一度も来ていない」
裁判長「黒川が計画の話をしたろう」
・・しかし、現場で黒川らとの会話に強盗の話があったことを立証できなかった。
裁判長「黒川が目で合図をしたろう」
石井「初対面の黒川が目で合図しただけで、強盗殺人の計画など分かるわけがない」
石井「いま、私が裁判長に目で合図するから、何を言ったかわかりますか?」
裁判長「暗々裏に強盗殺人しようとしたことを知ったのだろう」
石井「報酬の話もないのに初対面の人の計画に荷担するか?」
裁判長「私は神様じゃないからわからない。神様だけが知っている」
石井「そんなバカな話があるか!納得できる説明と立証をしてくれ!」
裁判長「もう裁判は終わったのだ。不服があったら上訴しろ」

こうして、西・石井に死刑、黒川に懲役15年、その他の被告に6−5年及び無罪が言い渡される。
黒川は控訴審判決で服罪するが、西・石井及び2名の被告は上告する。
上告審は二審判決から5年を経て上告棄却となった。

−獄中で−

宗教論争
確定直後、福岡拘置所の死刑囚では浦河正三(第十話)をはじめとするキリスト教信者が多かったが、仏教徒の西はキリスト教批判をする。これに対し浦河も反論し、しばらくの間、両死刑囚の間で宗教論争が続いたが、教育部長の仲裁でこの論争は幕をひいた。

古川泰龍
1961年春、二人は福岡刑務所の教戒師・古川泰龍に出会う。
彼は二人の訴えを聞き、事件の記録を読み、二人の事件の事実認定の誤りを確信する。
この事件の正体はは強盗殺人事件ではなく、石井の起こした正当防衛の殺人事件と西の起こした詐欺事件である。
これ以降、彼は知人などにこの事件が部分冤罪であることを訴え、自らの生活を削ってまで二人を死刑から救おうと奔走する。

処刑の危機
62年春、二人の処刑の噂が流れた。
早速古川は、当時の法務大臣の知人である友人に頼んで、執行命令をださないよう頼んでもらった。
後日法相に面会に行った際、法相が言うには、「執行のサインを求められたが、今日は疲れているからと断って家に帰ったわけだが、そこへ大学の知り合いから速達で手紙が来ていたので見てみたら、執行のサインを求められていた死刑囚に関する冤罪の可能性をとくものだった。」
まさに危機一髪だった。

−生死の境−

個別恩赦
68年、国会で再審改正法案が提出される。再審の規定を緩くするよう求めるものだったが、翌年廃案になった。だが、その見返りとして法相はGHQ占領下で起訴された死刑事件6件7名に対して積極的に恩赦を実現することを約束した。
69年、大阪拘置所の山本宏子(1951.7.10死刑確定)が恩赦に、翌年には宮城刑務所の山崎小太郎(1952.3.28死刑確定)が恩赦で減刑された。
もうすぐ我々も、と二人は思ったという。

生と死
75年になると、いろいろな筋から現実味を帯びた二人の恩赦の話が入ってくる。
そんな中、6月17日をむかえた。
免田栄氏(第四話)によると、免田氏が西に「もうすぐ恩赦ですね」というと、西は暗い表情で「さあ、わからぬなあ」と言ったという。
やがて、免田氏が野球をするためマウンドにのぼって投球練習をしていると、池田という死刑囚が「今日はおかしいですね。あれを・・」といってあごをしゃくるので、見てみると、指導課長と僧侶が西のほうへ歩いていく。
池田が「今日は恩赦決定日でしょう?」というのに、免田氏はうなずきながら廻りを見渡すと、石井は楽しそうにキャッチボールしているし、西は看守と話しているし、いつもと変わらないようなのだが、何十人も見送った免田氏は、異様な気配を感じたという。
普通、処刑は運動前に行われるので、その不安をかき消すようにしていたが、運動後の風呂に入ったその帰りに、数人の看守がやってきて、「西、処刑がきたぞ」と一言いって連れ去ったそうである。
それを知った石井は、従来共犯は同日に処刑されることを知っているので、急いで遺書を11名あてに書き始めた。
やがて、看守が石井の房にもやってきたので、「まだ(遺書を)書き終わっていないから、もう少し待ってくれ」というと、看守は「違う違う!君は西を弔ってやってくれ」という。石井は説明を求めたが、真相を知らされたのは20日になってからだった。
池田が「石井さん、よかった。あなたはないよ。恩赦だ」と言った一言で、初めて恩赦を知ったのである。

生死を分けた理由
なぜ、生死を分けたかは諸説があって分からないが、有力な説として、以下のようなものがある。

恩赦は刑(この場合死刑)を決めた犯罪に対して、罪を認めて悔悟している者にのみ適用される。
石井は殺人罪を認めて、悔悟しているので恩赦対象になるが、死刑犯罪ではない窃盗罪しか認めない西は恩赦にできなかった。
石井の恩赦は、有力者の働きかけもあるし、やるしかないが、やるとなれば共犯者の処遇も確定しなければならない。
結局、死刑を執行するしかなかった・・
ということらしい。

石井その後
無期懲役に減刑された石井は、熊本刑務所で服役し、89年12月9日に仮釈放となり、現在は古川師のところに身を寄せている。


(C)笑月

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