殺しの人生

−生涯10人殺した戦後最悪の殺人鬼−

渋谷東一

1914.2.16 - 1985.5.31

職業:無職

長崎県県郡上県町(対馬)の農家に生まれる。
母親は4才のとき死亡。その入った後妻との間の折り合いが悪く、非行に走り、村一番の嫌われ者になる。
初犯は1930年に窃盗で岩国少年刑務所に服役。
以後、64年11月に仮出所するまでに、34年のうち30年は刑務所暮らし。
前科8犯となっている。特に6犯目は強盗殺人であり、刑期は最も重い10年である。
この事件に関しては第5話を参照のこと。

最後の出所後は、しばらく熊本市の更正保護会「熊本自営会」のK氏にお世話になっていたが、65年5月5日にK氏から金を借りたまま失踪する。
そして、資金調達のため、同年8月19日に福岡市のバタ屋・I氏を襲撃して負傷させ、48万円を強奪している。

その後故郷に帰ったり、各地を旅行するが、10月末には48万円も底をつく・・
事件以後
事件 1965.10.30
兵庫神戸
1965.11.3
滋賀大津
1965.11.22
福岡新宮
1965.12.3
京都京都
1965.12.3
京都京都
1965.12.5
大阪高槻
1965.12.12
兵庫西宮
強盗殺人
死者8
指定105号事件
一審 1971.4.1
神戸地裁
死刑
二審 1975.12.13
大阪高裁
棄却
三審 1978.11.28
第三小法廷
棄却
1985.5.31
大阪拘置所
死刑執行


−概要−

発覚順に記していく。

第三事件
 11月22日、福岡県粕屋郡新宮町で英語塾教師黒木さんが殺害されているのが発見された。洋服と現金が奪われた。
この被害者の自宅から見覚えのないズボンが発見され、「大沼伊勢蔵」と書いてあった。
 大沼伊勢蔵は1907年山形県生まれで、強盗・窃盗など前科2犯。現在は神戸市でバタ屋をやっているという。

第一事件
 11月29日、福岡県警は大沼を犯人として、その住所である神戸市垂水区に急行した。
 しかし大沼は自宅のふとんの下でミイラ化した死体となっていた。
 絞殺で、カレンダーは10月30日までめくれていた。
 後に分かったことだが、犯人は大沼さんの作ったうどんを、殺害後に食べている。

第二事件
 一方、滋賀県警でも同じような手口での殺しがあった。
 琵琶湖畔の水泳場の管理人大島さんが絞殺され、死体にはふとんがかけてあった。
 現場にあった信州味噌の容器で作った砂糖入れから、犯人のものと思われる指紋が発見される。

警察庁の対応
 被害者は黒木さんを除いて、いずれも一人暮らしの貧しい老人だったので、警察庁は中部管区以西の28府県警察本部に「主要道路沿線地域で孤立したバラックに住む独居者」について、その実態を把握するよう指令を出した。
そして12月9日、警察庁は該当事件を広域重要指定(警察庁指定)105号に指定した。

第四・第五事件
 その結果、12月11日に京都市伏見区の名神高速道路鴨川陸橋下のバラックで市川さんが絞殺されているのが発見された。(第四事件)
 その三時間後、第四事件の現場から800m下流の同区にある京川橋下のバラックで広垣さんが絞殺されているのが発見される。いずれの死体にもふとんがかけられていた。

犯人割り出し
 このころ、序章で述べた8月のI氏襲撃が発覚し、その証言によって作成したモンタージュ写真を見た福岡県警のある刑事が「渋谷に似ている」と言った。
 早速、滋賀事件の指紋と渋谷の指紋を照合したところ、見事に一致した。
 12月10日、警察庁は犯人を渋谷と断定した。

第七事件
 12月12日、芦屋警察署の巡査が河口近くのバラックを調査していたところ、川向こうに移動した老人が居たのを思い出し、西宮警察署の管轄だったが越境してその老人のバラックを訪ねてみた。
 すると奥村さんと山本(嘉)さんが頭を割られて瀕死の重傷を負っている。
巡査は犯行後間もないことを悟り、近くを探すと、防波堤に寄りかかる男を発見した。
 渋谷によく似ている上、手に血痕がついている。
 同行を求めたところ、わりとすんなり同意した。さらに渋谷かどうかを聞いたところ、それもすんなり認めた。8人殺して金を奪った男の所持金は6円だった。
 数時間後、被害者の二人は死亡した。

第六事件
 警察署に連行され、取り調べを受けた渋谷は12月16日、「警察の知らない事件を教えてやろうか」と言い、大阪府高槻市で人を殺したことを得意そうに話した。
 警官が高槻市の橋下のバラックに行ってみると、建築手伝いの山本(正)さんの絞殺死体が見つかった。

 なお、余談として他に3件の殺しについても手口が似ていることから渋谷の犯行が疑われていたが、古い事件だったり、本人がすぐに供述を変えたりで、結局起訴されなかった。
 この3件を除いても生涯で10人殺したことになる。死に追いやった共犯の分を含めると11人というところか・・

−裁判−

 検事は渋谷の犯罪を「昭和刑事犯罪史上洵に極悪非道無類」と表現して、死刑を求刑する。
 事件数が多かった為か、審理期間は長く、同じ頃事件を犯した死刑囚はとうの昔に処刑されているであろう78年11月28日に最高裁で上告棄却。
 判決訂正申し立ての棄却で79年に死刑確定。実に事件から13年もたっていた。

−確定後−

 彼は確定後、仏のように静かな日々と荒れる日々が交互にきていたようである。
彼はこの当時60才を過ぎており、性格も円くなったかというと、そうでもない。

 彼の処刑が近づいた頃、普段彼がかわいがっている若い死刑囚と、中平という死刑囚が一緒にいるのを嫉妬して、二人を竹べらで刺して負傷させた。
 しかしこの事件は表に出なかった。被害者がそれをいやがったからである。
 なぜならこの当時、渋谷の処刑順位が一番高く(確定が古く)、この事件が表に出ると 裁判をしなければならなくなり、渋谷の処刑は停止してしまう。
 そうなると、次に確定が古いのは中平であり、中平が一番に処刑される危険性が大きくなるからである。(事実・渋谷の次に処刑されている)
 結局、渋谷は順当に処刑されていった。享年71。
 なお71才で処刑というのは、戦後日本では高齢記録だそうである。


(C)笑月

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