殺らなきゃ殺られる−脅迫され続けた共同正犯− | ||||||||||||||||||||||||||
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−概要(柴田の上告趣意より)−第一事件借金で首が回らなくなっている知り合い二人に相談された柴田が、偽りの麻薬の取引をもちだし、30万円用意させて船の上におびき出し、睡眠薬入り栄養剤を飲ませたあと、首を絞めて殺害し、平川に手伝わせ死体を海中に遺棄したもの。 このとき平川は材木取引の手伝いという名目で柴田に誘われて同行していた。殺害時、平川は船の中で寝ていた。 この事件以降、若い平川は柴田に恐怖を抱き、命令に逆らえなくなる。 第二事件 ある土地を欲しがっている知人に、その土地を世話すると言って誘い出し、平川に頭を殴らせ、ひるんだ被害者を柴田が絞殺し、その持ち物を奪った。 平川は土地を見に行くからついてこいと命令されていた。 第三事件 ブローカーである女性を架空の麻薬取引に引きずり込み、46万円用意させ、睡眠薬入りサイダーを飲ませたあと、女性を絞殺し、金を奪った。 この事件では、柴田は平川に殺人を犯させようと執拗に要求していた。 −事件の背景−柴田は長期の懲役で親族に深い恨みを醸成させていったようだ。(前科の)事件前にもっと暖かくしてくれればというのが言い分だが、仮釈放後に柴田は仕事や生活の世話を一族(主に平川の父)から受けている。 柴田は出所後も一族を皆殺しにしようと思っており、事実第一事件で被害者二人を殺したあと、寝ている平川に殺意を抱いたようである。 結局、柴田が選んだのは、若い従兄弟を殺人の共犯に引きずり込んで不幸にすることだった。それゆえ、第三事件では平川に殺人の事実を作らせたいがため、執拗に殺害を迫っている。 なお、この一連の内容は双方の上告趣意で一致している。 −裁判−平川とその家族の不幸を画策する柴田は、平川を共同正犯に仕立てる供述を行う。その結果、共同正犯は認められ、二人は死刑判決が下される。 そんな柴田が心変わりしたのは上告審になってからで、にわかに平川を不憫に思ったらしい。平川が全く事前謀議に関わっておらず、自分にたいする恐怖心を利用して引きずり込んだことを認めたのだ。 しかし、最高裁は平川・柴田の訴えを認めず、上告を棄却する。 −確定後−平川と柴田が確定した頃の広島拘置所は、一時期死刑確定者がいなかった時期の直後で、再審のノウハウを持っている者はいなかったが、平川は三人の弁護士の助けで再審請求をする。結局平川は62,64,65年に再審請求の特別抗告を棄却され、65年12月21日の裁判官忌避申し立ての特別抗告(4回目)が棄却されたのを最後に最高裁の資料から名前が消える。 一方で平川は、61年12月2日に西本願寺光照によって帰依し、釈顕信の法名をもらい、その後短歌を詠うようになる。 69年11月に柴田は獄死するが、平川はその後も短歌を詠い続ける。 そして、70年10月29日、明日死刑執行することを言い渡された平川は、交通のあった人に24通の手紙を書く。そしてその中には絶句となった次の一首があった。 弥陀に抱かれ 還れる日の来ぬ 露の夜は 独生・独死・独去・独来 平川和夫、享年42。 −Special thanks to−だいず様 |