別途逮捕別途処刑−同じ事件で別々に逮捕・処刑された共犯− | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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−概要−1947年1月23日、大阪市東成区で看板屋のTさんとその養子が殺された。Tさんの妻によると、以前から闇米を持ってきていた若者二人が前夜やってきたので、食事を出したという。その二人は東北からやってきていたこと、以前天王寺で闇米の取締で検挙されたことがあると語っていたことなどから、中山英蔵と中山平蔵であることが判明した。間もなく平蔵は郷里に帰ったところを逮捕。しかし英蔵は逃亡し、そのまま行方しれずとなる。そのまま平蔵は起訴された。 −平蔵のその後−共犯未逮捕のまま裁判は進められ、大阪地裁で無期懲役判決。検察は、あくまで死刑を求め控訴したところ、大阪高裁で逆転死刑。上告審では、弁護士は「主導的な共犯・中山英蔵が逮捕されてないのに、十分な審理などできない」と頑張ったが、上告も棄却され、48年11月9日、死刑が確定した。約1年を大阪拘置所ですごした後、49年11月30日。死刑を執行された。享年22。 −英蔵その後−その後、英蔵は逃亡先で内妻と暮らすなどしていたが、1952年、広島県で強盗殺人未遂事件を起こし、広島県警に逮捕された。やがて、大阪府警からの照会にある人物と一致することが分かると、大阪府警に身柄を渡された。裁判は、広島の強盗殺人未遂事件も併合して審理された。弁護士は平蔵の一審弁護士と同じ人物だった。 同年9月9日、大阪地裁で死刑判決。早速控訴するが、「内妻と隔壁なしで会いたい」という気持ちが、彼を脱獄へと駆り立てる。 彼は内妻に宗教関係の本の背に金ノコを入れさせて差し入れさせ、同年11月29日、鉄格子を切り、切った鉄格子をチューインガムでくっつけて偽装し、脱獄した。しかし広島への移動中、神戸において逮捕され、再び収監される。 二審の審理では、平蔵の死刑執行によって、英蔵の事件関与の度合いを証明できないと、がんばったが、高裁の答えは「未逮捕の共犯者があっても、その者が逮捕されるまですでに確定した死刑の執行を延期しなければならない規定も必要もないから、共犯者の逮捕以前において法務大臣が相当と認定して命令した死刑の執行は適法である」であった。 最高裁の申立では、一審弁護人が共犯と同じなのは刑事訴訟法に違反すると、がんばったが、最高裁は「別々の時期に別々に弁護しているから問題ない」ということで、上告棄却。共犯の処刑から4年後に死刑が確定した。 その後は、俳句を作ったり、同囚の見送りの際に「はとポッポ」を歌ったりしながら過ごしていたが、57年6月27日、共犯に遅れること7年で死刑を執行された。享年30。 |