凶悪犯の正体

−世の中が憎悪した「凶悪犯」の素顔−

小原保

1933.01.26 - 1971.12.23

職業:無職

 福島県の農家の11人のうち10番目に生まれた。
 小学校時代に、あかぎれからバイ菌が入ったため、骨髄炎にかかり、足の手術を受ける。その結果右足が曲がってしまい、ビッコをひくようになる。
 母親は保に、手に職を着けさせようと時計職人に弟子入りさせる。その時計職人の一家が疫痢にかかると、一度実家に戻る。その後仙台に出て身体障害者職業訓練所の時計科に入り、同課程を修了後に同市の時計店に勤めるが、肋膜炎を患ったため帰省。このように就職・離職を繰り返す内に、時計ブローカーとなり、窃盗・横領の前科を重ねていった。

事件以後
事件 1963.3.31
東京台東
殺人
死者1
(吉展ちゃん事件)
一審 1966.3.17
東京地裁
死刑
二審 1966.11.29
東京高裁
棄却
三審 1967.10.13
第二小法廷
棄却
1971.12.23
東京拘置所
死刑執行


−概要−

 1963年3月31日、土建業のM氏の長男・吉展ちゃんがアメリカ製の水鉄砲に水を入れようとしているのを見た小原は、吉展ちゃんをそのまま連れだし、同日夜、自分の側で眠っている吉展ちゃんの首を絞めて殺害し、円通寺の墓の一つに吉展ちゃんの遺体を隠した。
 4月2日になると、小原はM家に身代金(50万円)要求の電話をかける。7日午前1時、彼は身代金引き渡しの具体的な電話を入れた。指定した場所はM家から300mの地点である。彼は誘拐犯である証明及び、身代金を置く目印として、現場に吉展ちゃんの靴を置いておいた。
 一方、刑事達は吉展ちゃんの母親が乗った車が発進したと同時にM家を出発したが、彼らは徒歩で現場に向かっていた。この結果、微妙なタイムラグが発生し、小原は身代金を取るのに成功し、警察は犯人逮捕に失敗したのだった。
 この後、当時の原警視総監は犯人に「吉展ちゃん」を返すよう、呼びかけを行ったりしたが、結局吉展ちゃんの行方が分かるのは2年3月後になってからだった。

 身代金取得後、小原は20万円あった借金を返したが、声が似ていたことや、借金があったことから容疑者リストにあがり、取り調べを受けたが、アリバイが証明されたこと、また対象年齢(40−50歳)に一致しないことなどから、リストからはずされる。
 その後同棲していた女性と別れ、さらに12月になると窃盗事件を起こして逮捕され、翌年4月、懲役2年が確定し、前橋刑務所に服役することになる。

 65年3月11日、捜査本部は解散になったが、警視庁は4人の専従捜査員を任命した。その中には平塚八兵衛刑事もいた。彼は小原にターゲットを絞り、小原の複数あったアリバイを次々と崩していった。そして、小原に対する取り調べを開始した。
 このときの取り調べは、警察としても背水の陣の状況にあった。というのは、小原はすでにこの事件で2回取り調べを受けており、人権問題との批判が出つつあったからだ。専従捜査員に与えられた時間は10日間。しかし小原は平塚の追求にのらりくらりと逃げる。小原の人間性に訴えるような説得にも応じない。
 期限が迫ったころ、平塚は小原の主張するアリバイを次々と崩していく。小原は表情を変えて黙った。平塚はだめ押しとばかりに、小原の母親が平塚たちにした土下座を再現した。
「お前の母親は俺達に向かって、保を真人間にしてやってくれといって、このように土下座したんだ」
 小原はうめき声をたてた後、泣きだし、ついに吉展ちゃんを殺したことを認めた。そして遺体のありかを自白したのだった。
 彼が頑強に自白を拒否したのは、自白して親兄弟に迷惑をかけるのを避けたかったからであった。

−小原の評判−

 小原自供後、平塚は記者会見に赴いた。その時、ある記者から、
 「小原はどういう奴でしたか?」
 という質問が出た。平塚はやりきれないような表情で、
 「かわいそうな奴だよ」
 と言った。それを聞いた記者達が、平塚を咎めるように、
 「かわいそうとはどういう意味ですか!」
 と声を高くしたものだった。この記者に代表される感情が小原に向けられたものであろう。
 また、弁護士に選任されたT弁護士は、「小原の弁護をすることは、今のオウムの弁護をするようなもので、身内からも反対されました」と言っている。

 余談であるが、笑月の母は小原と同じ福島県出身なのだが、会社にいたとき、ある上司に、いやみのつもりで「S(笑月の母)さんは小原と同じ福島だっけな」と言われたそうである。

−裁判−

 裁判では、事件の計画性を争うことになったが、判決は死刑だった。
 小原自身は服罪するつもりだったと言われているが、弁護士が説得し控訴。しかし控訴も棄却。さらに上告したが、67年に棄却され、死刑が確定した。

−その後−

 捕まった直後から悔悟の日々を送っていた。最低でも毎日二時間読経をあげたりしていた。
 そんな小原もやはり心のよりどころがほしかったのだろう。彼は病気療養者とその関係者で作られる「土偶短歌会」という会に参加を申し込む。土偶の主催者は小原の心境や境遇を理解し、会員を説得したが、「吉展ちゃん殺しの小原は駄目だ」ということで小原の入会を認めることはできなかった。そこで主催者は小原の投稿歌を「福島誠一」というペンネームで載せるようにした。福島は小原の出身県、誠一は「誠実一筋」の意味を込めたとのこと。

 71年12月23日、最後を迎えることになった小原は、信頼していた教戒師に、「先生、お経は私のためではなく、吉展ちゃんの冥福を祈って、あげてください。私も吉展ちゃんのために一緒に唱和させていただきます。それが私の成仏にもつながるものと信じます」と言った。また、取り調べで心を開いた平塚八兵衛警部には、「今度生まれてくるときは真人間に生まれてきます」という言づてを看守に頼んだ。享年38歳。



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