身代わり

−兄の身代わりになって死んだ弟−

川村弘美

1927.12.10 - 1953.2.20

職業:農業

窃盗の前科あり。
身体はあまり強くなかったらしい。

事件以後
事件 1947.5.23
兵庫矢野
強盗殺人
死者2
一審 1947.11.14
神戸地裁姫路支部
死刑
二審(一次) 1948.7.20
大阪高裁
死刑
三審(一次) 1949.1.30
第三小法廷
破棄差戻
二審(二次) 1949.12.26
大阪高裁
死刑
三審(二次) 1951.2.2
第二小法廷
棄却
1953.2.20
大阪拘置所
死刑執行


−概要−

 1947年5月23日に兵庫県赤穂郡矢野村(現相生市)の農家に川村兄弟が押し入り、夫婦を殺し、衣類を奪った強盗殺人事件が発生した。
 このとき夫婦を殺したのは兄Tであり、弘美は凶器である斧を便所に捨てただけであった。

−裁判−

 兄弟はすぐ逮捕されたが、相生署で弘美は兄を庇う決意をする。
 というのも、弘美は窃盗の前科があり身体も弱く、兄には妻子がいたためだった。
 主犯は弘美ということになり、一審判決は弘美に死刑、Tに無期懲役を言い渡した。

 Tはそのまま服役したが、弘美は死の恐怖にとりつかれ、「主犯は兄だ」と主張した。
 しかし二審の公判で、真実を問われたTは、小さな声で「弘美が殺しました」と言った。
 第一次上告審では、公判手続の不備を発見した最高裁が差し戻し判決を出したが、  第二次控訴審でも死刑。第二次上告審も棄却で弘美の死刑は確定した。

−確定後−

 弘美はもう主犯従犯の主張をすることもなかった。世の中に絶望していたのだ。
 ところが、弘美の姉が大阪拘置所の牧師のところに「弟は従犯で、兄を庇った」と言いにきた。
 牧師が弘美にそのことをただすと、初めて弘美は牧師に対して自分の心内を打ち明けた。
 牧師はこの誤判を見過ごせず、日々弟を死に追いやろうとした自分を責めている兄Tに  協力を呼びかけ、「本当は私がやった」という手紙を書かせた。
 そして、その手紙を(誤判の明確な証拠)として再審請求したのだ。
 しかし、Tは調書をとる段階で、何度も供述を変えており、客観的な証拠にならないということで、  結局弘美の再審請求は棄却された。
 それからまもなく弘美は執行された。
 彼は最後に「誤った裁判で死ぬのは自分で最後にしてほしい」と言い残して死んだ。



(C)笑月

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