悔悟の極地−自分の死によって遺族の幸せを願った男− | |||||||||||||||||||
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島原憲二1934.06.28 - 1967.11.02職業:無職 朝鮮生まれ。 父親は警察官で、戦後は新潟に引き揚げるが、公職追放。 母親は9才のとき病死。 中学までは病弱な上、低能と馬鹿にされ続けた。 ほめられた記憶は「絵の構図がよい」と言われた1回だけ。 長じるにつれ、非行・犯罪に走るようになる。 強盗殺人未遂、放火などで服役の経験あり。 歌人・島秋人として知られる。 |
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−概要−最後の事件の出所から1月後、新潟県小千谷市のS宅に侵入。家族を縛り上げ2千円を奪って逃走するが、すぐに舞い戻り、主人の頭を棍棒で殴り重傷を負わせ、妻をタオルで絞殺する。 2日後に三条市で逮捕。 −裁判−新潟地裁長岡支部で死刑。控訴・上告するが結局上告も棄却され、死刑は確定する。 −獄中で−歌人・島秋人の誕生一審判決後、彼は「孤独な少年が絵を描くことによって心を開かれていく」という小説を読んで感動し、絵を描きたい衝動にかられる。 そのとき思い出したのが、過去唯一自分をほめてくれた(構図の件)図画の先生だった。 彼はその先生に自分の境遇を説明し、児童の絵がほしいという手紙を送った。 その結果、先生から絵を送ってもらったが、ほかに夫人の詠んだ短歌もあった。 これをきっかけに短歌を自力で勉強し、詠んでいくことになる。 限られた命を短歌に注いだ彼の歌は人の心を打ち、やがて歌人・窪田空穂との出会い、「毎日歌壇賞」受賞をもたらす。 いつしか彼は歌号として「島秋人」を名乗るようになる。 知人を増やす 彼は歌を通じて、いろいろな人と知り合う。 目の見えない婦人とお互いの身の上を哀れみ、彼は2千円(2−3月分の稼ぎ)を彼女に送っている。 また、後に養母になる女性とも知り合う。彼は彼女の養子になり、千葉姓を名乗るようになる。 被害者 彼は生存中、被害者の遺族に一度もお詫びの手紙を書かなかった。 曰く「死刑をもってしか謝罪にならない。生きているうちに謝ったら、嘘になる。」 67年10月16日、田中伊三次法相は23人の死刑囚の書類にサインしたことを発表した。23人の中には彼も含まれていた・・ 10月21日より、広島を除く6カ所の拘置所で処刑の嵐が吹き荒れる。 彼は同じ死刑囚が処刑されていくのを何度か見送っていく。 彼は遺書を何通か用意するが、被害者遺族にあてたものには、こう書かれていた。 長い間、お詫びも申し上げず過ごしていました。申し訳ありません。 本日処刑を受けることになり、ここに深くお詫び致します。 最後まで犯した罪を悔いておりました。 亡き奥様にご報告ください。 私は詫びても詫びたりず、ひたすらに悔いを深めるのみでございます。 死によっていくらかでもお心の癒される事をお願い申しあげます。 申し訳ないことでありました。ここに記してお詫びのことに代えます。 処刑後、遺族はこうつぶやいた。 「私どもも不幸せだったが、この男も不幸せだった・・」 最後の言葉 願わくは、精薄や貧しき子らも疎まれず、 幼きころよりこの人々に、正しき導きと神のみ恵みが与えられ、 わたくし如き愚かな者の死の後は、 死刑が廃されても、犯罪のなき世の中がうちたてられますように・・ 享年33。 死後、「遺愛集」という歌集を残す。 |