冤罪を憎む判事

−判事に助けられた少年死刑囚−

谷口繁義

1930.12.3 -

職業:無職


事件以後
事件 1950.2.28
香川財田
強盗殺人
死者1
(財田川事件)
一審 1952.1.25
高松地裁丸亀支部
死刑
二審 1956.6.8
高松高裁
棄却
三審 1957.1.22
第三小法廷
棄却
再審
一審 1984.3.12
高松地裁丸亀支部
無罪


−概要−

 1950年2月28日、香川県三豊郡財田村で、ブローカーをしていた香川重雄さんが血だらけで殺害されているのが発見された。三豊地区署は、ブローカー関係の人を片っ端から調べたが、1月たっても犯人を検挙できない。そこで捜査対象を、付近の不良に拡大した。
 その折り、4月1日に神田村(財田村の隣)で強盗致傷事件が発生し、谷口とIが逮捕された。警察はこの二人に的を絞ったが、Iには香川殺害事件当時のアリバイがある。そして取り調べは谷口に集中し、強盗致傷事件及び別の窃盗事件の取り調べと称しては香川殺害事件の取り調べを長期にわたって繰りかえし、ついに谷口は自白する。

−裁判−

 裁判になると谷口は一貫して否認するが、自白調書を採用して高松地裁丸亀支部は死刑を宣告する。
 控訴・上告も棄却され、57年1月22日に死刑が確定した。

−確定後−

処刑の危機
 確定の直後、彼は大阪拘置所に移送される。谷口は、先輩の死刑囚とともに俳句の会に出席したりしているうちに、「自分も死ぬときは、先輩達のように立派に死にたい」と思うようになる。
 一方、繁義の父は、確定直後に彼に代わって最高裁に再審請求をするが、却下されている。
 1959年5月頃、法務省から、谷口に関する証拠・公判記録・身上調査などを照会してくる。これは死刑執行の前触れである。彼の順番が来ていたのだ。
 しかし、執行指揮書は来なかった。
 実は調査の際、法務省としては、提出された証拠や記録だけでは執行できないと判断したのだった。こうして、数年の歳月が流れる。

再審
 1969年3月、高松地裁丸亀支部の矢野伊吉判事(部総括判事=裁判長)は、ほこりをかぶった再審請求書を発見する。日付は64年3月27日。ずいぶん日の目を見なかった再審請求書を読むと、疑わしい点があるのを感じ、調査を開始。やがて右陪席・左陪席の判事と語らい、再審開始の線で話をまとめるが、決定の段になって、他の二人が翻意し、この再審請求は棄却される。
 しかし矢野にはこの事件を無視することはできなかった。冤罪で死刑というのが、裁判官としてどうしても許せなかったのだ。棄却からあまりたたないうちに裁判官を辞職。弁護士となり、谷口救援に奔走するようになる。
 協力者を求めたり、本を書いたりして世間に訴えたりと、持ち出しの活動を続ける。
 やがて、追い風になる判決が最高裁から出される。いわゆる「白鳥判決」で、「疑わしきは、被告人の利益に」という判決だ。

 谷口の再審特別抗告(高松高裁は即時抗告を棄却)は白鳥判決の翌年76年に決定が出される。「地裁へ差し戻す」。最高裁が再審の特別抗告で、被告側の言い分を認めたのは、後にも先にもこれだけである。最高裁のメンバーは白鳥判決と同じだった。
 最高裁が一番問題にしたのは、死刑判決を出した裁判時に、警察によって裁判所に提出された事件についての「告白」が書かれている「谷口の手記」とされるものと、逮捕当初に谷口が書いた手記の部分。
 前者は全体的にまとまりがある、いわゆる「普通の文章」なのだが、後者は彼が当時見た夢を、全て平仮名でまとまりなく書かれた物だった。谷口は小学校しか出ておらず、手記作成当時、前者のような文章は書けなかったと判断したのだ。つまり最高裁は「告白手記」は、警察の作文であると判断したのだった。

 結局再審は開始され、その再審でも、谷口の無罪は認定された。
 だが、谷口の無罪を夢見て奔走した矢野は、谷口の無罪判決を見ることはなかった。79年に病没したのだった。


(C)笑月

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