再審申立

はじめに

 再審とは、確定判決を受けた者が、その判決に不満を持つときに申し立てることである。
 裁判は三審制なので、どの段階の判決に不満があるかを決めて申し立てるのが普通だが、各審に対する判決に同時に再審を申し立てることが出来る。もし、このうち1つでも再審が受理されれば、他の再審申立は破棄される。
 おそらく刑訴法の立法者は、確定刑を最初に決定した判決(例えば、一審判決が最終審まで維持された場合は一審判決、高裁が一審判決を破棄した場合は二審判決)に対して再審を申し立てることを想定していたのだろうが、実際には最終審(上告棄却の場合は最高裁判決)に対して再審を申し立てることも多い。しかし、最高裁は再審の要になる事実認定には関わらないので、最高裁判決に対する再審というのは、意味がない。
 地裁に対して申し立てた再審が棄却されると、高裁に即時抗告を申し立てることが出来る。これも棄却されると、最高裁に特別抗告を申し立てることができる。なお、刑訴法を知らない死刑囚が、最高裁に即時抗告申立をして、手続き違反で棄却されることも多い。

 以下、最高裁判決集の判決・決定一覧に記載された、死刑囚の再審(即時抗告・特別抗告を含む)申立状況を書いていく。
 ただ、注意してほしいのは、ここに記されているのは最高裁に申立てられた分だけなので、実際の申立数はもっと多いことである。


延命としての再審

 よく、再審請求中に処刑はないというが、本当であろうか?
 知っている人はいるだろうが、99年に再審請求中の小野照男(福岡)が処刑された。よって、必ずしもそうではない。が、法務省は請求中の処刑はできるだけ避けようとする傾向は、間違いなく存在する。極端な例としては、70年代の話だが、確定後10年以上生きていた死刑囚が、特別抗告棄却の7日後に処刑という例もあったぐらいだ。
 ちなみに請求中の処刑は、小野のケースだけではない。古い話になるが、福岡刑務所のKが福岡高裁に申立てた再審請求棄却(58年4月22日付)の決定を記す。

 
主文
 本件の再審請求を棄却する。
 
理由
 記録に編綴されている当庁、M書記官補作成の電話聴取書によれば、再審請求人は昭和33年4月12日、すでに死刑の執行がなされたことが明らかである。
 従って、本件請求権は消滅したものと認め主文の通り決定する。
 
 昭和33年4月22日 福岡高等裁判所刑事第四部


概況

 判決集が全事件を記し始めたのが1954年以降なので、それ以降の概況を記す。

 1954−57年の死刑囚による総申立数は58件(30名)で、この期間中に最も多い者は6回申し立てている。これらの再審請求は、もちろん冤罪を証明しようという意思によって書かれたものもあるが、微妙な事実認定に不満を訴えて、それによって「延命」するのを狙っているものが多い。
 地域的には名古屋以外の6カ所で確認されているが、そのうち大阪では死刑囚本人による申立がない。これは死刑囚に対する宗教教戒が十二分に成功している結果であろう。余談であるが、後に無罪になった谷口繁義氏は、冤罪にも関わらず、「いかに立派に死ぬか」ということを考えたそうである。免田栄氏が憎悪する「因果応報」でも言い含められたのであろうか?孫斗八元死刑囚が教戒を「去勢教育」と攻撃するのもうなづける。
 さて、1956−57年を境に、「申立の常連」の名前が消えていく。これ以降は申立件数も激減する。58年は5件、59年は3件、60年代は30件、70年代は15件、80年代は7件、90年代は11件といった具合である。
 件数の減少は、「常連」の執行ということだけなしに、そういう「常連」が全滅することによって、再審の手続きを死刑囚間で伝える・助けることを断ち切られたのではないかと推測する。法務省がそういう意思を持って、それを実行したのではないかと思える。

 60年代は、その嵐を乗り切った古参死刑囚が、腰を据えて調査して再審をするケースが出てくる。それまでは、地裁に対する再審申立から最高裁の特別抗告棄却まで1年程度のものが多かったのが、この時期以降は数年を要するようになる。申立内容が充実してきたと考えられる。また最高裁に対する再審申立や即時抗告申立も激減した。特に即時抗告申立による手続き不備などという悲惨な決定は61年を最後に、見られなくなった。それと関連してか、この時期の常連は、平沢貞通や免田栄、山崎小太郎といった、処刑されなかった死刑囚が主である。

 60−70年代の特徴として、広島の死刑囚が活発に再審申立をしていることが挙げられる。
 80年代以降になると、再審の「量より質」の傾向は、ますます顕著になっているようである。
 では、以下地域別に見ていく。


福岡

 54−57年の福岡からの申立数の多さは、宮城(仙台)と双璧をなす。8名によって20件申し立てられている。
 福岡の特徴としては、件数の多さの割には、即時抗告申立による手続き違反=棄却というケースが存在しないことである。これは被告の中に、申し立ての知識を有している者と、そうでない者との交流・援助がある程度なされていたのではないかと思われる。
 そういえは免田栄氏は、交番爆破事件で拘置されていた未決被告Eに、再審申立の方法を教えて貰もらったようである。
 例によって、この時期に申立した死刑囚で、この時期を生き残ったのは免田栄・石井健治郎の両氏のみである。
 58−69年には、先の両氏の他に数名の名が見える程度で、件数も8件にとどまっている。
 70年代は、75年頭にY(年内処刑)の特別抗告が却下されたのを初出に、尾田信夫の特別抗告が続く。79年に尾田の特別抗告が却下された後、その次の再審が19年に及んだ為、80年代には申立が一件もない。
 90年代に入ると小野照男・武安幸久・浜田武重の名が見える。そして、98年には尾田の19年に及ぶ再審請求が棄却される。申立数は8件。


広島

 57年までは、49年確定のKの名前が2度でてくるだけあるが、それも55年3月を最後に見えなくなる。広島では、57年までにそれ以前の死刑囚が全員死亡している。
 60年以降に、再審請求がにわかに活発になる。この時期は、八海事件や仁保事件の被告が収容されていたので、そういった被告のつてがあったと思われる。
 初出は62年の特別抗告で、共犯に脅されて死体遺棄を手伝っただけで、殺害に関わっていないという申立て(列伝第三話を参照)で、以降76年までに6名によって13件申し立てられている。ちなみにこの時期当所にいた確定死刑囚は12名である。50%もの死刑囚が再審(特別抗告)を申し立てるという状況は、この時期の広島拘置所ぐらいである。ただ、76年を最後に広島からの申立ては見あたらない。それは、76年以降に確定した死刑囚が、未だ2名しかいないからであろう。
 ちなみに、ここでも即時抗告申立による手続き違反=棄却というケースが存在しない。


大阪

 大阪は、死刑囚の多さは東京(宮城)につぎ、福岡と並ぶくらいなのに、再審の申立てが極端に少ない。54年以降80年代に至るまで、孫斗八・谷口繁義2名による4件だけである。これは、職員による矯正教育・教戒・そして俳句の会などが、死刑囚の心を犯罪への悔悟・死刑での贖罪という気持ちに持っていった結果と思われる。作家の加賀乙彦も、全国の拘置所を回った際に、「大阪の死刑囚だけはちがう」と思ったそうである。
 ただ、先にも述べたとおり、冤罪の人間にも、あきらめを持たせる教育という一面もあるようである。それゆえ孫斗八は、そのような教育を「去勢教育」と攻撃し、一切受け付けなかったのだろう。「去勢教育」を受けなかった孫斗八は、再審請求を繰り返していた。
 90年代には渡辺清、神宮雅晴の2件が確認されている。
 なお、76年の谷口繁義の特別抗告は、死刑囚の抗告で唯一下級審の決定が破棄された事例である。


名古屋

 名古屋も申立てが極端に少ない。54年以降現在まで、3名3件しか確認されない。最も、70年代以降は奥西勝の再審請求が長期にわたった為であろう。3件とも、特別抗告である。


東京

 52年前期までは、確定直後に他の拘置所に移送していたため、それ以前に東京拘置所での再審申立てはない。
 ここの特徴は、ある時期にある1名が連続して申立てするという傾向があることである。
 60年代以前は平沢貞通の名前が見えるだけである。56−62年に7件だが、63年に宮城刑務所に移送されたため、その後申立ては絶えて久しくなる。
 70−80年代は79−82年の佐藤虎実による3件だけである。
 90年代になると、大道寺将司・島津新治による2件があるだけである。


仙台

 54−57年は11名によって24件申し立てられている。死刑囚の数が多かった分、申立数も多い。
 ここの特徴は、申し立て内容が特別抗告・再審・即時抗告と雑多であることである。ただし、ここで即時抗告を申し立てたのは、後に恩赦になった山崎小太郎他1名だけである。この11名のうち、この時期生き残ったのも山崎だけである。56年には、それまで特別抗告しか申立てなかった3名の常連が、憑かれたように同年内に3度も最高裁に再審請求を申立て、1−4月程度で却下された後、姿を消している。
 59−61年には山崎の名前以外は見あたらないが、60年に佐藤誠(牟礼事件)、63年に平沢貞通が東京から移送されている。それ故、60年代後半からはこの2名の名前、そして後に冤罪が認められた赤堀政夫や斉藤幸夫の名前も見える。
 70年代以降は、死刑囚の減少及び、常連である山崎小太郎の恩赦、平沢・佐藤・赤堀・斉藤にちゃんとした支援組織がついた為、内容のある再審請求がなされるようになったため、申立数が激減する。60年代8件だったのが、70年代以降現在に至るまで7件のみである。
 ちなみに、2000年12月4日現在、仙台拘置支所に確定死刑囚はいない。


札幌

 ここでの再審の草分けは、住職夫婦を殺した強盗殺人事件で、53年に死刑が確定したHである。彼も57年までの「常連」の一人だった。彼に続いて60年までに5名が再審を申立て、10件の棄却が確認される。
 札幌の特徴として、60年までに申し立てられた10件は全て「最高裁判決に対する再審請求」であるということである。これは、Hの再審に対する姿勢が、60年頃までの再審請求する死刑囚に浸透していた。言い換えれば、死刑囚同士の交流・援助がある程度なされていたといえる。ただ、Hの再審に対する知識が十分でなかったため、いずれも有効なものとならなかったわけである。
 60年代は2件、70年代は0件。80年代は小島忠夫による「最高裁判決に対する再審請求」が3件。90年代は日高安政の審理再開申立てが1件あるだけである。


参考資料

福岡の犯罪・下
西日本新聞
北海道新聞


(C)笑月


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