警察庁指定事件制定のいきさつ戦後、GHQの命令により、国が指揮する警察(国警)と市町村が守備範囲の自治体警察が設置された。これはアメリカの方式を真似たものだが、長を警部や警部補とし、少人数の市町村自治体警察は治安能力が悪く、治安維持に問題があった。 そこで1952年のサンフランシスコ平和条約以降、市町村警察を統合し、最小単位を県警レベルにした。これでかなり治安能力は上がったのだが、県警同士での縄張り意識の問題が発生した。いや、市町村警察時代にもそれはあったのだが、組織が大きくなった分、一部の人間が協力に合意しても、どうにもならない状況が生まれたのだ。 その弊害は、越境した犯罪者のデータを他の県警に照会しても教えてもらえなかったり、その結果、同じ犯罪者の情報を複数の県警が別々に管理するという形で現れた。 1956年、警察庁は「治安に相当影響を及ぼし、又は、社会に衝撃を与えるような重要な犯罪や全国的に又は都道府県の区域にわたって特別に捜査を必要とする事案」について、各都道府県警察は他の事件に優先してその事件に取り組み、他の都道府県警に情報収集その他の協力をする義務を帯びる、重要被疑者特別要綱を制定した。 1963年10月18日、福岡県で日本専売公社の社員と運転手が殺され、金を奪われるという強盗殺人事件が発生した。目撃証言から、犯人は西口彰(1925-70)と判明。福岡県警は全国指名手配した。 しかし、西口は、瀬戸内海で偽装自殺をしたあと、詐欺を繰り返しながら北東に移動し11月18日には旅館の母娘を殺害し、現金を奪った上、家の物を売却して逃走した。 こんな中、警察庁は西口を重要被疑者特別要綱による特別手配にした。 しかし、西口は検挙されず、落とし物を交番に届けたり、裁判所の中で弁護士や検事を語って詐欺をしたりしながら北上し、福島県で弁護士バッジを盗んで北海道まで行き、やがて東京にやってきて、12月には元検事の老弁護士を殺害した。 この間、全国12万の警察官は人相書きを携帯したりしていたが、一向に西口を検挙出来なかった。 翌年1月2日、熊本県に住んでいた教戒師・古川泰龍のところに、弁護士を名乗る男がやってきて、古川が行っている福岡事件死刑囚救援運動に協力すると言い出した。古川は大変喜んだが、古川の長女が、弁護士は西口彰に似ていると言い出した。古川は人相書きを確認させたあと、密かに警察に通報したが、警察はいい加減な対応しかしてくれない。結局、警察にうるさく訴えた結果、ようやく警察も動き、西口検挙に至った。 この事件について、警察の要職を歴任した高松敬治は、次のように言っている。 「全国の警察は、西口逮捕のために懸命な捜査を続けたが、結果的には全国12万人余の警察官の目は幼い一人の少女の目に及ばなかったのである。」 制定後の歴史以上のような経歴を経て、警察庁は1964年4月13日に広域重要事件特別捜査要綱を制定した。これは、指定事件において、各都道府県警のもつ情報を相互に交換・統合し、連絡や協力を密にするものであり、これらの協力は要請が無くても無条件に自動的になされるべきであるところが、重要被疑者特別要綱と違うところである。 1974年5月8日には、広域重要事件特別捜査要綱が広域重要捜査要綱に移行された。この要綱では、「社会的反響の大きい凶悪又は特異重要の事件」に限定された。 さらに1981年10月12日に要綱が更新され、準指定制度が設けられた。 指定事件一覧
各事件の概要(順次記載する)101号事件(連続学校金庫破り事件)北海道、九州を除く各都府県で高校や大学が連続して荒らされた窃盗事件。被害総額は1938万円。 1954年、同棲した女性に家出された嶋田邦男は、自暴自棄になり、デパートの屋上で自殺を図ったが死にきれず、そのデパートで金を盗んだのをきっかけに、窃盗を繰り返すようになる。 彼の犯行の多くは、木曜から土曜日にかけて、夜間に高校を荒らすというもので、1〜2週間の周期で犯行を繰り返した。彼は狙った所に目星をつけると、犯行当日に汽車で移動し、翌朝すぐに汽車で帰るという方法をとっていた。 この事件が他の指定事件と違うところは、犯人逮捕後に、初めて犯人の身元が分かったということである。これは嶋田に前科がまったくなかったことに大きな原因があった。 1964年5月30日、徳島県警に逮捕され、懲役7年の判決が高松高裁で確定した。 102号事件(連続役場金庫破り事件) 地方の小都市や町村の役場や小官公署、小中学校の金庫が連続して荒らされた事件。また、これらの犯行には、犯行現場にいた女性に対する強姦・同未遂、強制猥褻等5件も行われていた。被害総額は1579万円。 この事件ではジムクロと呼ばれる、金庫のダイヤルを切り取るのに使う器具を使うという特徴もあった。 犯人の星一夫は、戦時中、府中刑務所に服役していたとき、同房者からジムクロの使い方を教えられ、一連の事件の初期にジムクロを作成・改良して使用していた。また、移動には車を使い、101号の嶋田のように、犯行直前に現場に来て、直後に去るという方法をとっていたため、なかなか検挙できなかった。 1964年8月26日、長崎県警に逮捕され、懲役17年6月の判決が長崎地裁で確定した。 103号事件(集団窃盗事件) 104号事件(紡績工場金庫破り事件) 中部・近畿・中国地方で、工場の事務所・売店・寮などにあるロッカー・レジスター・金庫が連続して荒らされた事件。被害総額は1595万円。 手口や指紋などから、この犯行の早い段階から、犯人が1958年に徳島刑務所を仮出獄した井原房太郎であることは、各県警も分かっていたが、長らく逮捕されなかった。 1964年9月7日、伊豆の海水浴場で大阪府警に逮捕された。大阪に住む少女が手配ポスターを見ていて、通報されたためだった。 105号事件(西日本連続殺人事件) 詳細はこちら 106号事件(混血少年による連続女性殺人事件) 107号事件(横須賀線爆破事件) 詳細はこちら 108号事件(少年による連続射殺事件) 詳細はこちら 109号事件(高額現金抜き取り事件) 110号事件(連続銀行強盗事件) 111号事件(長野・富山連続誘拐殺人事件) 112号事件(藤沢母子殺人事件等) 113号事件(勝田清孝の連続殺人事件) 114号事件(グリコ・森永事件) 115号事件(元警官による連続強盗殺人事件) 116号事件(赤報隊事件) 117号事件(連続幼女殺人事件) 118号事件(連続社長誘拐殺人事件) 1986.07 金融業者誘拐殺人事件(岩手県雫石町) 1989.07 塗装会社社長誘拐殺人事件(福島県猪苗代町) 1991.05 塗装会社社長誘拐事件(千葉県市原市) この事件は、岩手の誘拐殺人事件は、岡崎茂男、迫康裕、Nら6名が金融業者を誘拐して土地の権利書や財布を奪って、生き埋めにした誘拐殺人事件から始まる。 さらに6名は、Iを加えて福島で塗装会社社長を誘拐して1700万円を脅し取って殺害。 一連の事件の発覚となった千葉の社長誘拐事件は、迫とNによってなされ、二人は社長から2000万円を脅し取った後、宇都宮で社長を解放した。 逮捕後、Nは病気で、他の6人とは公判を分離されたが、96年に病死した。 残る6人には、岡崎、迫、熊谷昭孝に死刑、残りの3人に無期懲役が言い渡され、いずれも確定した。 また、千葉の社長誘拐にのみ関わったTは、懲役6年が確定している。 119号事件(連続ママ殺人事件) 120号事件(大阪愛犬家殺人事件) 121号事件(滋賀・群馬・東京連続強盗殺人事件) 1993.01 自動車自損保険金詐欺事件 1993.10 パチンコ店強盗事件(静岡県清水市) 1993.10 金融業者強盗殺人事件(滋賀県八日市市) 1993.12 金融業者強盗殺人未遂事件(東京都足立区) 1993.12 ゲーム喫茶店長強盗殺人事件(群馬県高崎市) 1993.12 不動産業者強盗殺人事件(東京都足立区) この事件のグループは、殺人のつく重大事件全てに関わった主犯グループ2名と、八日市市の事件(以下八日市事件)だけに関わった八日市グループ3名と、2つの足立区の事件に関わった東京グループ2名に分けることができる。 一番古い詐欺事件は、東京グループの2名がおこなったもの。 清水市のパチンコ店強盗事件は主犯下山信一と、八日市グループのY・Kが共謀したもの。 次の八日市事件には主犯・八日市の各グループ計5名が金融業者を強盗目的で殺害したもので、この事件がグループ逮捕の発端となった。 さらに主犯グループは東京で東京グループのSと手を組んで、足立の強盗殺人未遂事件を起こし、さらにSが1月に詐欺事件で共謀したMをグループに引き入れ、足立の強盗殺人事件を引き起こす。 また、その間に主犯グループは、短銃を使ってゲーム喫茶店長強盗殺人事件を起こしている。 八日市グループは大津地裁で、主犯・東京グループは東京地裁で審理され、次のような結果になっている。 ・八日市グループ Y・K:無期懲役(一審懲役15年) Y・T:懲役8年(一審懲役5年) M・T:不明 ・東京グループ S・F:無期懲役 M・K:懲役13年(一審確定) ・主犯グループ 下山信一:死刑 黄奕善:死刑 122号事件(連続女性バラバラ殺人事件) 123号事件(浦安・横浜殺人等事件) 1993.08 不動産業者監禁事件(東京都八王子市) 1994.07 社長誘拐・傷害事件(栃木県宇都宮市) 1994.08 金融業者殺人事件(神奈川県横浜市) 1994.08 不動産業者殺人事件(千葉県浦安市) 1995.01 パチンコ店店長誘拐事件(福岡県春日市) 1995.05 信金支店短銃強盗致傷事件(熊本県熊本市) この事件は、山口組系山英会幹部・組員を中心とした十数名によってなされているが、その多くが関わったのは春日市のパチンコ店店長誘拐事件(以下春日事件)及び熊本市の短銃強盗事件(以下熊本事件)だけで、刑の重い殺人事件(以下横浜事件・浦安事件)に関わったのは7名だけである。 一連の事件の検挙のきっかけになったのは熊本事件で、事件の翌月から主犯の宮沢吉司(山英会幹部)らが逮捕された。そして春日事件に関わっていることが判明して7月下旬までに、グループ6名が逮捕、3名が指名手配され、最終的に春日事件には12名が関わっていることが判明した。そして、順次福岡地裁で公判が開かれていった。 また、グループの一部は、八王子・宇都宮・横浜・浦安の事件に絡んでいることが判明し、特に横浜・浦安事件に関わった7名(1名はこの時点でまだ未逮捕)は、審理が横浜地裁に移された。 このうち4人は99年に横浜地裁で無期懲役〜懲役10年を言い渡され、無期懲役を言い渡された主犯の宮沢吉司は控訴・上告したものの、01年に無期懲役が確定した。 また、横浜・浦安事件に関わった残りの1名は97年に大阪で逮捕され、00年に横浜地裁で懲役16年を言い渡されている。(罪名は傷害致死) 他の2名及び、懲役2年に処せられた2名を除く、春日・熊本事件だけに関わった被告達の判決については不明。 124号事件(マブチ事件等) 参考資料戦後刑事警察史の一断面(高松敬治)朝日新聞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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