死刑の境界

−検察を怒らせた第一次控訴審−

永山則夫

1949.06.27 - 1997.08.01

職業:無職

 北海道網走市呼人番外地で八人兄弟の七番目として生まれた。
 父はリンゴ選定職人だったが、収入は博打に費やしてしまうため、一家は母の収入だけに頼らなくてはならなかった。
 やがて父は失踪。母は1954年に、次女、末の妹と長兄の娘だけを連れて青森へと去ってしまう。このため、残された子供達は、この冬を子供だけで越さなければならなかった。結局翌年になって、近所の人が福祉事務所に通報したことにより、残された子供達も青森に引き取られる。
 中学になると、服が汚く貧しいためにバカにされたため、学校を休みがちになり、家出を繰り返すようになる。また、この頃は日常的に兄達からリンチを受けていた。
 65年に中卒の「金の卵」として上京し、フルーツパーラに勤めるが、入社半年後、掃除をさぼったことに上司が叱ったことから、退社。その月のうちに密航を企てるが、船内で発見され、香港から強制送還される。
 翌年1月、大阪の米屋に就職した。ここでは主人に気に入られ、正社員にするから戸籍謄本を持ってくるよう言われた。このとき取り寄せた本籍地は「網走市呼人番外地」と記されていた。当時「網走番外地シリーズ」が流行っており、網走番外地=刑務所というイメージがあり、永山は「自分が刑務所で生まれた」と勘違いされるのを恐れ、謄本を提出しなかった(注:網走刑務所の所在は網走市字三眺官有無番地)。そのうち謄本が発見され、同僚から「お前、番外地で生まれたんだってな」と言われ、逃げるように米屋をやめた。
 その後も喫茶店店員、ベル・ボーイ、クリーニング店店員、牛乳配達などをやるが、長続きしなかった。
事件以後
事件 1968.10.11
東京
1968.10.14
京都京都
1968.10.26
北海道七飯
1968.11.5
愛知名古屋
強盗殺人
死者4
指定108号事件
一審 1979.7.10
東京地裁
死刑
二審(一次) 1981.8.21
東京高裁
無期懲役
三審(一次) 1983.7.8
第二小法廷
破棄差戻
二審(二次) 1987.3.18
東京高裁
棄却
三審(二次) 1990.4.17
第三小法廷
棄却
1997.8.1
東京拘置所
死刑執行


−概要−

第一事件(東京事件)
 68年10月はじめ頃、神奈川県横須賀市の米軍基地に侵入し、小口径のピストルを盗む。
 同月11日、東京プリンスホテルの敷地内を歩いていると、階段を上がってきたガードマンに「どこへ行くんだ」と聞かれ、階段の方を指さして「向こうに行きたい」というと、「向こうへは行けない。ちょっとこい」とジャンパーを掴まれたため、ピストルを盗んでいるし、ここで捕まってはまずいと思った永山は、ガードマンに対して至近から発砲。眉毛のそばに命中した。このためガードマンは約9時間後に死亡した。

第二事件(京都事件)
 三日後、京都市にいた永山は、野宿するつもりで八坂神社に行った。
 本殿前を通り過ぎたとき、「ぼん、どこへいくのや」と、警備員の老人に声をかけられたので、茂みの方を指さして「あっちへ行くのや」と言うと、「向こうは何もない、おかしいやないか!お前どっから来たんや」と詰問調で聞いてきた。黙っているといつまでも離れずに詰問が続くので、ナイフを取り出して「近づくと刺すぞ」と脅してみたが、相手は「そんなことしてもあかん。警察いこう」と言い出した。
 ついに永山はピストルを取り出して、老人の胸と頭めがけて数発発砲し、うち4発が命中した。永山は、音を聞きつけた警官をうまくやり過ごして逃走した。老人は数時間後に死亡した。
 18日、警察庁は東京事件と京都事件が同一犯によるものと断定し、一連の事件を広域重要指定108号に指定した。

第三事件(函館事件)
 京都事件後、次兄に会った則夫は、事件を起こしたことを次兄に話した。そのため次兄は自首を勧めるが、則夫は頑として聞かない。そして生まれ故郷の網走で自殺すると、立ち去った。
 結局死にきれないまま、26日には所持金が100円になっていた。そこでタクシー強盗をしようと思い、函館市でタクシーに乗った。
 行き先を聞かれ、七飯へ行くよう指示した。しばらくして「七飯に入りましたよ」と言われたが、そこは広い国道なので、強盗するには適当ではないと考え、少し先にある狭い道に入らせて、上り坂の途中で車を停めさせた。運転手は明かりをつけて永山の方を振り向こうとした刹那、永山は運転手の頭めがけて2発発砲した。運転手はシートに寄りかかるようにして動かなくなったが、そのときブレーキが外れたのか、車がバックして家の壁にぶつかった。
 永山は運転手の左ポケットから約八千円を奪って逃走した。
 なお、この事件は当初、被害者が射殺されたものと判断されず、指定事件とは関係ないとされたが、名古屋事件の後になって頭部内に鉄片(弾丸)があったことが判明し、指定事件と認定される。

第四事件(名古屋事件)
 翌月5日、名古屋にいた永山が道を歩いていると、Iの運転するタクシーがやってきて、「どこへ行くの」と聞いてきたので、「港に行く」と答えたら、Iは後部座席のドアを開けたので、乗った。車内でIは「港へ何しに行くの」と聞くので、「港で働くんだよ」と答えたら、「あんた東京の人でしょう。今夜どうするつもり?」と聞いてきた。
 これに永山は驚いた。どうして東京の人間だと分かった?もう東京の人間と知られた以上は、このままにしておけば、今までの事件の足がついて、警察に捕まるかも知れない、と考えた。そして、金もあまりないことだし、運転手を射殺して金を奪おうと、とっさに思った。
 そして暗そうな場所を見つけて、そこにタクシーを停めさせ、そこで運転手を撃った。運転手は「待って!待って!」と言ったが、かまわず続けて運転手の頭を撃ち、約七千円と腕時計等を奪った。

 翌年4月7日午前1時半頃、一橋スクール・オブ・ビジネスに窃盗目的で侵入したが、このとき警報システムが作動した。そして、ここと契約している警備会社の警備員が、現場にかけつけ、永山を発見した。
 永山は発砲したが、弾は警棒に当たっただけだった。警備員達は永山を押さえようとしたが、このときは永山は逃走に成功している。しかし人相を警察に通報されている。
 続いて同日午前5時頃、通報を受けた警官に逮捕された。


−裁判−

一審判決まで
 永山は拘置所に収監されると、本をむさぼるように読んだ。そして事件が起きたのは俺が無知で貧乏だったからだと主張し始める。
 そして71年3月には、自身の幼年時代の極貧生活や、その背景の社会のゆがみを書いた「無知の涙」を出版して、それがベストセラーとなる。その後も多くの本を書いては出版している。
 この頃論告求刑公判があり、死刑を求刑されたが、次の最終弁論の直前に永山が弁護士を解任したため、公判が中断。以後、一審公判は8年も続くことになる。
 79年2月、再び検察は死刑を求刑し、5月には最終弁論も行われ、裁判は結審。同年7月の判決は死刑だった。

第一次二審判決まで
 80年12月、永山はアメリカ在住の日本人女性と、獄中結婚した。そしてその女性は永山が書いた本の印税を持って被害者遺族を訪ねている。しかし受け取ったのは京都事件と函館事件の遺族だけだった。しかし受け取らなかった遺族も、墓参りは許可している。
 81年8月21日、東京高裁での判決は無期懲役だった。合計4人以上を殺した強盗殺人事件の主犯で、懲役刑が確定した例は、非常にまれである。それでも二審判決は、以下の点を理由に無期懲役刑を選択した。

 1:永山は19歳であったが、精神的成熟度は18歳未満の少年に等しかった。
 2:永山の幼少時の悲惨な境遇には、国家社会の福祉政策の貧困の原因があり、全ての責任を永山に課すのは酷である。
 3:永山は結婚により、心境の変化が現れ、一審公判時と比べると質問に素直に答えるなど、態度にも変化が現れている。
 4:著書の印税を遺族に払った。もしくは払う意思が、今後もある。

第一次上告審判決まで
 検察はこの判決に怒り、「無期に減刑した東京高等裁判所の判決は判例違反」という異例の上告を申し立てた。しかしその実質は「無期懲役を量刑不当とした上告」であった。上告理由を「判例違反」にしたのは、上告できる理由が、憲法違反か判例違反に限られているからだ。
 検察は言う、「四人も殺した事件で死刑が選択されないのなら、事実上死刑判決など出なくなる。それに、今拘置されている死刑囚に対しても不平等だ」
 この裁判は第二小法廷で裁かれたが、最高裁は秘かに各小法廷から一人ずつ集めて小委員会を作り、意見を求めるなど、実質上の大法廷裁判と言われた。そして、上告申立から判決が出るまで、その他の死刑事件上告審判決もストップした。
 そして83年7月8日、その後も死刑事件で引用される第一次上告審判決(昭和56あ1505号)がだされた。
 検察側の主張は実質量刑不当で適当な上告理由にあたらないと退けながらも、二審判決を破棄した。
 そして、「死刑を選択する基準」を以下の点にあると明らかにした

 1:犯行の罪質
 2:動機
 3:残虐性
 4:殺害数
 5:遺族の被害感情
 6:社会的影響
 7:犯人の年齢
 8:前科
 9:犯行後の情状

 そして、二審の減刑理由を、以下の理由で否定するのだった。

 1:永山の精神的成熟度は18歳未満の少年に等しかったことを認める証拠はない。
 2:永山の他の兄弟が普通に社会生活を送っているのを見ても、幼少時の環境的負因を減刑理由にするのは適当ではないし、福祉政策のありようを事件に関係づけるのも妥当ではない。
 3:結婚や永山自身の変化などの主観的事情や、遺族への慰謝を過大に評価すべきではない。

 こうして破棄差戻判決となった。

確定まで
 84年7月に刊行した「木橋」が、後に第19回新日本文学賞を永山にもたらす。
 しかし86年4月に獄中結婚した妻と離婚。永山は面会室で意見が合わないときなどに、妻を土下座させたりして、妻もついていけなくなっていったようだ。
 第二次控訴審判決は、一審判決を肯定する「控訴棄却」だった。
 上告審判決も近くなった90年1月、永山は日本文芸家協会に入会を申請する。しかし同会は「殺人者を迎え入れるのは・・」ということで、決定を保留した。これを知った永山は申請を撤回した。なお、このことが原因で作家の中上健次、筒井康隆、文芸評論家の柄谷行人が同会を脱会している。
 そして同年4月、上告棄却となり、翌月死刑が確定した。

−確定後−

 97年8月1日、永山は死刑を執行された。享年48。
 この日、同じ死刑囚の大道寺将司は、午前に「ウォー」という絶叫を聞いたと証言している。同日東京拘置所では、別の死刑囚も執行されており、この絶叫が永山のものかは確認されていない。
 死後、ホームレスの若者を主人公とした「華」という作品が残された。また遺言により、遺体の灰はオホーツク海に散骨された。
 また、同じく遺言により、残された印税を元に「永山こども基金」が設立された。これは遺言の中の「私の印税は世界と日本、特にペルーの貧しい子供たちに送って下さい」という下りに従って設立されたもの。



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