量刑分岐

−同じような事件で方や死刑、方や無期−

奥田直人

1939.08.15 - 1998.11.19

職業:模型店経営

 1939年8月15日、広島県福山市で7月の早産で生誕。79年、自動車会社を退職し、実家にて模型店と損害保険代理店を開業するが、83年頃には運転資金に困り、借金におわれる。そして、その年の暮れに妻子と別れる。事件当時、借金は1200万円にものぼっていた。
 その一方、近所の少年ソフトボールチームのコーチなどをつとめている。。

事件以後
事件 1984.2.13
広島福山
殺人
死者1
一審 1985.7.17
広島地裁
福山支部
死刑
二審 1986.10.21
広島高裁
棄却
三審 1991.6.11
第三小法廷
棄却
1998.11.19
広島拘置所
死刑執行


−概要−

 かねてソフトボールのコーチをしていたチームのメンバーだった泰州くん(当時9歳)を、「チョコレートを買ってあげる」と車に乗せ、デパートへと連れていったあと、山道を走行中に脱輪してしまう。ここで泰州くんは泣き出してしまう。泣き出した泰州くんを持て余した奥田は、ここで泰州くんを殺害する。
 殺害後、福山市の市会議員である泰州くんの父に身代金を要求し、15万円とキャッシュカードを手に入れた。さらに公衆電話から、口座に1千万円を振り込むよう指示している最中に、逮捕される。

−司くん事件−

 一方、全く同じような事件が80年8月2日に、山梨県においても発生していた。被害者の名前をとって、「司ちゃん事件」という。
 犯人・石川俊雄の動機も、奥田と同じく自営業の運転資金に行き詰まったためである。家族にだまって家出をしている最中、数人の子供達の中で、もっとも身体が小さかった司ちゃん(当時5歳)を誘い出した。
 その直後から1千万円要求の脅迫電話を繰り返したが、4日には泣き出した司ちゃんを絞殺している。その後は、子供の声色を使ったりして身代金を要求したが、15日に浅草で逮捕される。

−裁判−

司ちゃん事件
 82年3月30日、甲府地裁の判決。
 「犯行動機に同情の余地はなく、幼児が足手まといになるや無惨にも殺害、その後も生きているかのように装って金を要求するなど、極めて卑劣にして残酷」と死刑を言い渡した。
 そのときの石川の言葉「償いがしたい、働いて償いがしたい。死刑というのは償いでしょうか?私が死んだら、被害者様も被害者様のご両親も私を許してくれるのでしょうか?一度で良いからチャンスを与えてほしい。生きて償えというチャンスを」

 85年3月の東京高裁では、最初に「主文・無期懲役」。それに続く判決理由は、一審判決をなぞるようなものだったが、最後に「最近、強盗殺人などの凶悪事件に対する量刑が慎重になりつつある動向も、罪責均衡の面から無視できない。一審の量刑は、真にやむを得ないものと断ずるには、なお若干のためらいがある」
 こうして石川の無期懲役は確定した。
 そのときの石川の言葉「本当に本当にありがとうございました。これから生きて償います」

泰州くん事件
 85年7月17日、広島地裁福山支部判決。
 「事前に計画したとは認めにくく、改悛の情も認められるが、全てを考慮しても罪責は重大である」と、死刑判決。
 翌年10月の広島高裁では、「犯行は計画的で執拗かつ残虐で、改悛を考慮しても極刑はやむを得ない」と、一段と認定を厳しくして控訴棄却。
 二審判決が最高裁で覆ることは、まれである。奥田の場合も例にもれず、91年には上告棄却で死刑が確定した。

 まったく同じような事件なのに、なぜ死刑と無期に別れたか?「どの裁判官にあたったか」というのもあるだろうが、石川と奥田の違いで決定的だったのは、石川の親族が、被害者に1千万円ほどの補償をしていたことだ。
 補償をすることで減刑するというのは、加害者による補償を促進するねらいがあるのかどうかは分からないが、概して金持ちは「補償」によって、地位のある者(政治家や上級公務員・社長や重役など)は「社会的制裁」を理由に減刑されることが、少なくない。

−獄中で−

 裁判が未決時代は「備州」という俳名で俳句を書いて、投稿などしていたが、確定直後に禁止される。
 また、同じ未決時代に、死刑廃止団体「ユニテ」創設に関わったりしていた。
 確定後の彼については、殆ど知られていない。唯一接触のありうる家族は、世間から姿を隠さなければならないし、同囚から彼の情報が漏れてくることもない。なにせ、彼は広島拘置所では7年ぶりの死刑確定者であり、それ以来執行されるまで「同囚」に恵まれず、確定の7年間は、広島拘置所唯一の死刑確定者であったのだから。
 98年11月19日、広島では15年ぶりの死刑執行だった。享年59。


(C)笑月

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