差別による死

−差別裁判を受けて死刑になった男−

藤本松夫

1922.07.18 - 1962.09.14

職業:農業

 熊本県水源村(現:菊池市)生まれ。
 1950年、自覚症状のないまま、ライ病の宣告を受ける。
 その当時ライ病は不治の病とされ、狭い村内でその宣告を受けるのは死刑を言い渡されるのにも等しかった。

事件以後
事件 1952.7.7
熊本水源
殺人
死者1
一審 1953.8.29
熊本地裁
死刑
二審 1954.12.13
福岡高裁
棄却
三審 1957.8.23
第二小法廷
棄却
1962.9.14
福岡刑務所
死刑執行


−概要−

 1950年のライ病宣告は、国が新しく出来たライ病患者収容施設「菊池恵楓園」に収容する患者を探すため、村に1名づつ患者を提供するよう通達したのが原因だった。当時水源村には、藤本を含め、患者が2名いた。もう1名は藤本よりも明らかに重度なのだが、村の有力者の家族なので、村役場・衛生係のFは、該当者のうち藤本のほうを「収容に値する患者」として申告したのだった。
 Fはこの件について、藤本の恨みをかったと思い、気にしていた。
 51年8月1日、F宅にダイナマイトが投げ込まれ、Fと次男が負傷した。Fはすぐさま犯人は藤本と主張した。藤本はアリバイを主張したが、それを立証するのが家族のため、信用できないと逮捕。52年6月9日、菊池恵楓園内の出張法廷で懲役10年を宣告される。
 判決の一週間後、恵楓園の特設拘置所を脱走した。その脱走の最中にFが殺されているのが発見される。
 もはや「藤本が逆恨みで殺した」という筋書きに疑問を唱える者はいなかった。藤本は逮捕時に警官の発砲を受けて被弾した。医者がライ病の感染をおそれて銃創の治療も十分にしないまま、取り調べを受け、苦痛のうちに自白する。しかしその自白内容も、その後の捜査や検視の結果が伝えられて行くにつれ、二転三転する。
 しかも、凶器や藤本の服からは、血液が検出されない。そこで鑑定者は、凶器については「水に浸せば血が検出されないこともある」とか、服については「服は不潔(ライ病患者のものだからという理由で)だし、蒸気で滅菌されたため、何かしら不明の物理的科学的な又は雑菌等の繁殖等が影響して血液が検出されなかった」という意見を出した。

−裁判−

 検察側の証拠物件を藤本が確認しようにも、「感染」を理由に認めず、裁判官にしても証拠物件を扱うときは、ゴム手袋をはめ、1m近くあるハシで物件をつまむといった具合だった。
 53年8月29日、恵楓園内の出張法廷で、死刑判決。控訴・上告も棄却され、57年8月23日に死刑確定。

−確定後−

 普通、福岡管区での死刑囚は福岡刑務所(当時)に収容されるが、彼はライ病ということで、恵楓園の特設拘置所にて日々を過ごした。
 一方、同じ恵楓園内の患者たちが、この不当な裁判を怒った。さらに外部の人もこの裁判を知ると協力を始め、ついには自民から共産までの国会議員も参加して「藤本松夫を救う会」を結成する。
 しかし法務省は、こうした動きを苦々しく思っていた。当時支援組織のついていた死刑囚として平沢貞通(二十話)、李珍宇、孫斗八(二十九話)らがおり、この四人をいかに執行するかという感じで、チャンスを狙っていた。そして最初に的が当てられたのが藤本だった。

 62年9月14日、藤本は福岡刑務所への移送を告げられた。彼は「ライ病の疑いが晴れたので、他の死刑囚と同じような処遇を受けられる」と解釈したらしい。というのは、彼は処刑の直前まで、処刑とは思わず、嬉々として従ったからだ。
 福岡刑務所で教育部長に会うと、「お別れたい」と、言われる。藤本は「先生(教育部長)は転勤されるとですか?」といった。この時点でも、藤本は処刑と思わなかったのかもしれない。しかし、再審請求は、昨日却下されたことを聞き、事態を悟る。
 「先生!ひどい!これはだましうちだ!」
 こうして藤本松夫は死んでいった。最後の言葉は「経はいらん」だった。


(C)笑月

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