懲りない男

−殺人未遂事件を起こした元死刑囚−

佐藤幸治

1931.5.2 -

職業:無職

本籍:神奈川県横浜市。
事件当時は小田原市に在住。

事件以後
事件 1949.9.14
神奈川小田原
殺人
死者5
一審 1950.1.12
横浜地裁小田原支部
死刑
二審 1951.3.20
東京高裁
棄却
三審 1951.9.6
第一小法廷
棄却
決定 1952.4.28
宮城刑務所
恩赦減刑
出獄 1970.3
宮城刑務所
仮出獄


−概要−

 風呂屋を営む隣家夫婦に馬鹿にされたと思い込み、夜間に隣家に侵入。夫婦とその母、長女を鉈で殺害し、次女と長男を電気コードで絞殺した。

−裁判−

 横浜地裁小田原支部で裁判長・三淵乾太郎(当時の最高裁長官の息子)から死刑判決を受ける。
 佐藤は一旦控訴したが、取り下げて服罪するつもりになり、控訴取り下げ手続きを始めた。そんな佐藤の様子知った一審裁判長・三淵はそれを思いとどまらせようと面会にきた。
 佐藤は、なぜ死刑判決を下した人間が控訴を勧めるのかという疑問を三淵に聞いた。
 三淵は「死刑は自分の世界観からいうと反対だ。しかし裁判は合議制だし、そのなかには世論や法規なども加味されるから、あのような判決になったのだ。」という。さらに「私の行為は、法廷の威信を汚すものとの強い批判を受けるかもしれないが、今の自分はそんなことを考慮するよりも人間ひとりを救いたい気持ちでいっぱいだ。一個の人の親としての気持ちから訪ねてきたのだ。だから控訴してくれ。」と、涙さえ浮かべて説いた。おそらく佐藤が犯行時少年だったことや、三淵の父が病気で余命幾ばくもないことなどが、このような行動に駆り立てた原因ではなかろうか。
 佐藤は泣き伏した。こうして佐藤は控訴取り下げを思いとどまった。
しかし5人を殺した罪は重大である。控訴・上告も棄却され、死刑は確定する。

−獄中で−

 確定直後に宮城刑務所に送られ死をまつ日々を送ったが、すぐにサンフランシスコ講和条約締結に際しての恩赦の話が出てくる。彼がこの恩赦に対してどういう気持ちをもったかは知らない。
 そして52年4月28日、宮城刑務所からは彼を含む3名の死刑確定者が無期懲役に減刑された。いずれも殺人罪で死刑が確定した者だった。
 彼はそのまま宮城刑務所に服役し、70年3月に仮出獄が許される。

−出獄後−

 地元・横浜に戻り、印刷会社に勤めて平穏な日々を送っていた。元死刑囚は、従順さとおとなしさで、近所の人にはまちがいを犯さない人との評判を得る。(当然死刑囚だったことは隠している)
 ある日、米屋の主人が非行に走っている娘を説得してくれと頼まれた。
引き受けた彼は、娘に会って相談にのったまではいいが、そこで肉体関係を結んでしまった。それ以後、その娘は友達を連れてきて彼の家にたむろするようになる。そして、そう いった女達とも肉体関係をもっていった。
 そんな中、彼はその中の一人に本気になってしまい、しかもそれを知った別の一人が嫉妬して本気になった女をいじめはじめる。それを知った彼は、84年7月8日・本気になった女とそれをいじめた女を包丁で刺して重傷を負わせた。

 84年12月19日、東京地裁・柴田裁判長は佐藤に殺人未遂罪で懲役8年を言い渡した。
 彼は千葉刑務所に服役した。


(C)笑月

戻る
inserted by FC2 system