おいしいものから食べなさい−GHQと共産党にはめられたスケープゴート− | |||||||||||||||||||
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竹内景助1921.2.1 - 1967.1.18職業:国鉄職員 長野県松代町の養蚕農家に生まれる。 当時は三鷹電車区の電車係。 犯行時間には、同僚と風呂に入っていたとの証言がある。 |
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−概要−三鷹事件とは、1949年7月15日に国鉄三鷹電車区の無人電車が午後8時23分に暴走し、 三鷹駅の車止めを突破。通行人6人が死亡した事件である。警察は事件発生直後に、共産党の謀略として、国鉄内の共産党員を逮捕した。 −時代背景−この時代は衆院選で共産党が大躍進した頃で、労働者のストも多発した。GHQは戦後、共産主義者や労働組合(労組)を保護するなど、戦前の価値観や組織を 壊滅させていったが、その目的をある程度成功させると、一転して日本の保守勢力と 手をむすんで労組を弾圧した。 というのも、この頃対ソ関係が冷却していたので、日本を共産化させるような 運動はGHQ(アメリカ)にとって好ましくなかったのだ。 しかし、労組の力は予想していたよりも大きくなっていた。 GHQは大衆と労組や共産党との繋がりを断たなければならなかった。 そこでGHQは国鉄に大量馘首を迫り、労組を挑発した。 これを知った労組が各地でストを起こしていた。 GHQは不穏な空気を作るのに成功した。 なお、この事件の前には大量馘首に悩んでいた国鉄総裁・下山が轢死体で発見された下山事件。直後には福島県松川で運転中の汽車が脱線し、機関士など3人が死亡した松川事件が発生している。 下山事件は自殺ということで落ち着いたが、松川事件では、1少年が拷問ををうけて自白した証言をもとに多くの労組関係者らが逮捕され、死刑5人を含む大量の有罪判決が出た(後に明確な無罪の証拠が出たため、全員無罪)。 −裁判−検察は共産党勢力が、竹内を含む一部の国鉄職員に犯行を指示したというシナリオで起訴した。起訴された被告の中で、竹内だけが非(共産)党員だった。 そんなとき、他の被告の弁護士が、竹内に「君の単独犯行ということにしてくれ」と説得される。せいぜい10年で済むだろうし、無罪になった他の被告や党も君を助けるよう努力するだろうし、共産革命が起こった暁には真っ先に釈放され、党の高いポストにつけるというのだ。 もともと共産党のシンパだった竹内はこの誘いにのってしまった。 そして、公判でも自分の単独犯行だと供述する。 そして一審判決は共産党の謀議であるという検察の起訴事実を「空中楼閣」と非難し、 竹内を無期懲役。他の被告を無罪とした。 検察の惨敗だったが、犯行の客観的な証拠もなく、犯行時間のアリバイもある竹内には 敗北だった。 検察、竹内共に控訴したが、東京高裁は実質的な審理もしないまま、他の被告の無罪を維持したが、竹内には一審判決を破棄して、改めて死刑を言い渡した。 竹内は予想外の結果に驚き、無罪を主張して上告した。 最高裁判事達は、竹内有罪論では一致していたが、量刑で二分し、判事の真野毅や小林俊三は、書類審理だけでなく、せめて口頭弁論(被告側の言い分を聞く)を開くべきだと主張した。 結局口頭弁論は開かれないまま、判決決定に入り、保守派の田中耕太郎最高裁長官、タカ派の斉藤悠輔はじめ8人は二審判決を支持。 一方、真野・小林はじめ7人は差し戻しを主張したが、及ばなかった。 結局竹内は1票差で死刑が確定したのだ。 この裁判は各界の批判を呼び、死刑存置論者の植松正や、投票に参加した最高裁判事真野でさえも「暴挙」と新聞などに批判を展開した。 この事件をきっかけに、死刑事件では必ず口頭弁論を開くようになった。 −確定後−竹内は早速にも再審の準備にとりかかる。再審請求のさなか、竹内は「おいしいものから食べなさい」という文を文芸春秋に投稿する。 内容は、 「まずいものは先に食べて、おいしいものは後にとっておくという自分の性格が災いして今の死刑囚という立場を得てしまった。」 というものだった。 竹内は共産党の弁護士が、甘い言葉で単独犯行を主張するよう言ったのに、死刑確定後に面会に来ないし、他の被告も同じだった。 単独犯行の主張という「まずいいもの」を食べた結果、党の救援活動や高いポストという「おいしいもの」は食べれなくなった。 そういう状況を怒りと皮肉の気持ちで書いたのが「おいしいものから食べなさい」だったのだ。 1966年10月、竹内の再審弁護人のもとに裁判所から証人の住所確認の手紙が来た。再審開始の吉兆だった。 しかし、竹内はこのころ正体不明の頭痛に苦しみ、面会人の名前を思い出せないほど痴呆化が進んだ。 翌年1月13日には昏睡状態になり、5日後死亡した。 |