移送

はじめに

 管区において、死刑執行施設の所在を書いてきたが、時代によってはある管区において死刑執行施設がないこともあった。
 このような場合、最寄りの管区に死刑囚を移送して死刑を執行していた。ここでは、そのようなケースを紹介していく。
 ただし、過去から現在に至るまで死刑執行施設のなかった高松管区については、特に扱わない。


広島送り(福岡→広島)

期間:1947−48
 戦前から存続した福岡管区の唯一の死刑執行施設である長崎刑務所浦上拘置支所が1945年8月9日に原爆で破壊され、確定死刑囚4名も被爆死した。
 これ以降、しばらくの間は確定死刑囚を福岡刑務所に拘置していたが、47年1月23日から当分の間、死刑を広島刑務所で執行することになった。
 福岡管区の死刑確定者の最初の執行指揮書は47年10月12日に鈴木法務総裁より発せられ、これにより島原の一家4人殺しの死刑囚が執行されることになった。
 以降翌年10月までに約12名が広島に移送され、処刑された。
 11月からは死刑執行施設を新設した福岡刑務所での死刑執行が始まり、広島送りは終わった。


福岡送り(広島→福岡)

期間:1949−50
 1948年に福岡に死刑執行施設が新設されたことにより、広島刑務所の施設を新築することになった。この改築期間の間に広島刑務所の死刑囚が福岡に送られた。
 約5名が福岡に移送され、処刑されている。


大阪送り(広島→大阪)

期間:1967
 実をいうと、「大阪送り」を明確に記述している記録を見たことはないのだが、矯正統計年報(1967)には、広島拘置所及び大阪拘置所に移送1名とあり、年初の繰越人数や出所(執行)数、入所数、そして年末在監数を計算すると、広島から大阪に1名移送されれば数が合うことが分かった。
 国会の質疑によると、死刑囚の精神安定に関して、移送が行われたとのことである。


名古屋送り(東京→名古屋)

期間:1952
 このころ、東京管区の死刑囚は宮城刑務所に移送されていたのだが、なぜかこの年の確定者のうち5名だけ名古屋拘置所に送られている。
 名古屋送りを明確に記しているのは58年の毎日新聞にのっていた茨城一家3人殺しの死刑囚についての記事である。これには、彼が52年7月に確定し、8月には名古屋に送られていることが記されている。
 移送数は、行刑統計年報(矯正統計年報の前身)で推測したもの。
 これら移送された死刑囚は57年末までに全員死亡している。


宮城送り(東京→宮城)

期間:1945−63
 1945年11月にGHQが東京拘置所(巣鴨拘置所)を接収したことにより、東京管区には死刑執行施設がなくなる。
 これ以降150名ほどが宮城刑務所に移送された。
 51年までは、確定直後に移送されていたようだが、52年の一部の確定者以降は確定からある期間、移送されなくなったようだ。例えば、帝銀事件の平沢貞通は55年の確定から7年ほど東京拘置所に収監されていたし、三鷹事件の竹内景助は55年の確定から67年の病死まで東京拘置所に収監された。


参考資料

日本の死刑(村野薫)
行刑統計年報
矯正統計年報
西日本新聞
毎日新聞

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