自分の国が戦争をしたらどうなるか2


2.言論、報道、教育

2−1.言論統制

 国に都合の悪いことは言うことができなくなる一方、国に都合の良い報道などがなされる。

○逮捕や懲罰召集
 事実や批判を発言、記事にしても逮捕や懲罰召集されることがある。
 逮捕の例としては、日本軍閥を批判した、福岡の代議士○吉田敬太郎のケースがある。吉田は政府を以下のように批判した。
「太平洋という大きな沼をアメリカ連合艦隊と言う何千羽のカモが、こっちに向かって泳いでいる。そこで日本軍閥という猟師が岸で鉄砲を構えた。そばにいた日本国民という子供が『早くあのカモを撃って』とせがむのだが、猟師は『まだ早い、もっと岸に引き寄せてからだ』という。ところがカモの大群はサイパンを過ぎ、硫黄島、沖縄にも近づいた。子供は『なぜ撃たないの、早く撃って』と猟師の腕を揺さぶるのだが、それでも猟師は狙いばかりさだめてる。ついにカモが岸にあがり、猟師の足に噛み付いた。このときになって引き金をひいたのだが、”カチッ”という音がしただけで鉄砲には弾が入っていなかった」
 その結果、国会閉会直後に憲兵隊(当時東條英機の私兵化していた)に逮捕され、西部軍司令部内に連行、不眠の拷問にかけられた結果、調書をとる際に『自白』させられ、軍関係者でもないのに軍法会議にかけられ、「例え事実を事実のまま発表しても、その結果が多くの人心を動揺させれば、造言飛語罪は成立する」という理由で懲役3年の判決を受けた。
 吉田は戦時下ということもあり、大豆カスに米と麦が1割くらいのメシが湯のみ茶碗1杯という食事で、栄養失調で死に掛かった。(福岡の犯罪・上ー造言飛語事件)
 後者は東京日日新聞記者だった新名丈夫と逓信省工務局長だった松前重義のケースがある。
 新名は、大正年間に徴兵検査をうけたが、弱視のために兵役免除されていた。しかし、1944年2月23日付の東京日日新聞に「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事で国の資源不足と戦争の形勢不利を書いたため、東條英機首相の命令により、懲罰召集を受けることになった。(証言4私の昭和史)
 松前は、省庁の局長であったため、高等官二等、つまり勅任官に該当した。勅任官は天皇の許可がない限り召集されない身分であった。しかし、日米の工業生産力を分析したデータを作成して報告したところ、東條英機首相は天皇への裁可を得た上で1944年7月18日に二等兵として懲罰召集を受けることになった。その上、死傷率の高い南方に送られた。(二等兵記)

○世論(空気)への影響
 国、政府など権力者に都合の悪いことを言えないような空気が作られる。
 戦争中は、息子が戦死した親は、息子の死を人前で表現することができなかった。また、食料の不足による不満や各種統制による不自由の愚痴を言っても、「皆我慢しているんだから」と言われ、言った者は悪者となり、場合によっては周囲から色々な嫌がらせを受けるようになる。

2−2.報道

○国、政府に都合の良い報道
 国、政府が新聞やTV、ネット等に検閲を行うようになるため、国、政府のやることに批判的な報道の抑制が行われる。通常の感覚では一般市民に無理な要求をすることが多くなるので、権力者としては報道への検閲は必須となる。(戦時ではないが、現在でも中華人民共和国では行われている)
 ちなみに、うっかり国、政府に都合の悪い報道すると、先述した新名丈夫のような目にあうことになる。

 一方、国、政府に都合の良い報道を行うようになる。
 日本の戦時下によくあったのは、以下のような報道。
 ・進んで国のために勇敢に戦い戦死した人を賛美(戦死するような戦いをすることが望ましいように錯覚させる報道)
 ・一家の主や年長の兄弟が戦死したときに、妻子、弟が経済的に逼迫しても頑張っているといった賛美
 ・進んで国のために財産を投じるのを賛美(戦死した人へ送られた弔慰金を献金・・等)

2−3.教育

○国、政府に都合の良い教育の推進
 明治以降昭和戦前期までは、天皇が日本を政治的にも宗教的にも統治する国家であるという形を強化することが国、政府にとって都合が良かった(天皇の命令という形をとれば、何でもできる)ため、教育や学問にも皇国史観的内容が盛り込まれた。
 一例として、皇国史観を推進した平泉澄※は、海軍大学における日本史の講義で、南朝方の人物は北畠親房公といったように「公」をつける一方で、北朝方の人物は足利尊氏といったように呼び捨てにするといったバイアスをかけることにより、南朝方が正義であるという思想を暗示していた。(高松宮と海軍)

○国、政府に都合の悪い学説の追放
 1935年に天皇機関説事件が発生した。
 天皇機関説は美濃部達吉らが主張した学説で、天皇主権説といくつかの論点で対立したが、そのうち、天皇機関説が『統治権は国家に属し、天皇はその最高機関即ち主権者としてその国家の最高意思決定権を行使する』という点が、天皇を絶対視する勢力から攻撃され、終には岡田啓介内閣から「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり(統治権が天皇にあるわけではなく、天皇は統治権を行使する為の機関であると主張するような説は、全く世界に比類のない日本が天皇制の本義をそこなうものである)」「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除せざるべからず(天皇機関説は、神聖なる日本の天皇制にもとり、本義を甚だしくそこなうものだから、絶対に取り除かなければならない)」との声明が出され、天皇機関説の教育を禁じられた。しかも美濃部は不敬罪の疑いで検事局の取調べを受けた上に、右翼から銃撃され、重傷を負った。
 1940年には津田事件が発生した。
 当時早稲田大学文学部教授だった津田左右吉が、日本書紀における聖徳太子関連記述について、その実在性を含めて批判的に考察したところ、津田の著書『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊は発売禁止の処分にされた上、文部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられた。さらに、津田と出版元の岩波茂雄は「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法(第26条)違反で起訴され、有罪判決を受けた。

 ※平泉澄は、東京帝国大学の学生だった中村吉治が卒業論文の指導を受けに当時助教授だった平泉を訪ね、百姓の歴史について論文を書くと言ったら、「百姓に歴史はありますか?豚に歴史はありますか?」と言って、中村の論文を受け付けなかった。(経済史:東北大学年報)



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