子供の旅2


 二度目の旅は、小学6年の時で、今度は四国へ行ったのだが、今度は同級生二人が一緒だった。
 今回も三人で計画を立てて、それぞれの親に承認してもらった。この旅では、前回と同じように、私の母が二人の親と話をして調整してくれた。ここで出された条件は、要所要所で親に電話を入れること。私が親に電話し、私の親から二人の親へ連絡するという仕組みが出来上がった。
 今回は四国周遊券という、四国圏内とそれまでの道のりでは、急行までは乗り放題という切符を使う。
 東京発大垣行き鈍行に乗って、早朝に大垣着。そこから鈍行と新快速を使って大阪へ。大阪からは、名前を忘れたが、大阪から山陽本線経由で姫路へ行き、そこから内陸に入って鳥取だか倉吉まで行く急行に乗って、姫路へ向かう。この電車は非常に混んでおり、我々は入り口付近で立つしかなかった。しかもこちらは重い荷物を持っているので、駅に停車して人が出入りするときは、大変だった。というか、息苦しくて、駅に着いて扉が開くたびに深呼吸をした。
 待ち遠しい姫路についたら、早速親に連絡を入れる。当時は勿論携帯などないので、公衆電話を探して電話をするのだ。この辺りから三人とも疲労により寡黙になってくる。
 姫路から岡山までは鈍行、そして岡山から宇野までも鈍行でゆっくり行く。当時は本州と四国に橋はかかってなかったので、宇野からは宇高連絡船に乗って高松へ。確か最終便に乗ったと思う。もちろん周りは真っ暗だ。
 この日の宿泊先は、高松0時50分発の急行「うわじま1号」だ。3両か4両しかない列車(電車ではなく、ディーゼル)で、この列車も満員だった。その混み具合を見て、もっと車両を増やすべきだと三人で言い合った。そこで、松山辺りの(確か)米屋の主人と知り合う。彼には写真を撮ってもらった。この人からは、後日写真を郵送してもらった。
 早朝、宇和島につく。私はうっかり座席で横になってしまったのだが、寝ている私を起こそうとした人がいたと、友人Hから聞かされた。私は起こしてくれればよかったのにと言う。最も、揺すられても起きなかったのだから、無理か。席に座れなかった人に気の毒をした。
 その後、四万十川を下るように移動した後、高知−池田−徳島とぬけ、八本松というところで国民宿舎に泊まった。
 翌朝、高松に向かった。高松駅構内を歩いていたとき、出勤途中の中年サラリーマンに呼び止められた。そして我々が子供だけで旅していることを聞いたサラリーマンは、忙しい中、わざわざ駅の売店で伊予柑を買って渡してくれた。
 金比羅山などを回った後、帰途についた。宇野からは寝台特急「瀬戸」に乗り、一路東京へ。
 こうして旅は終わった。

 当時の私の目的は列車に乗ることだったが、今最も思い出されるのは、行商のおじさん達、病院長、米屋の主人、サラリーマンなど、見知らぬ子供に温かく接してくれた人達や、同じ列車好きの玉城さんと山田さんのことばかりだ。また会って話をしたり、昔のお礼を言いたいところだが、一部の人を除き、それもままならないのが残念だ。しかし「一期一会」であることが、逆に彼らとの想い出を貴重なものにしている面もあるのだろう。
 人生の中で一瞬といって良い期間だったが、彼らとの間で後悔するような付き合いだけは、しなかったことが、今でも小さな誇りである。


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