法務大臣の決済

 ここでは、歴代の法務大臣がどのような気持ち・態度・タイミングで決済したかを記す。
 対象年代は、法務省の長が法務総裁から法務大臣になった1952年8月以降である。

木村篤太郎(1952.08.01-1952.10.24)
 彼は以前に司法大臣の経験を持ち、前年12月から法務総裁に就任しており、そのまま法務大臣になった。
 後にアイゼンハワー訪日の際、デモ集団に対して、暴力団を結集して反共抜刀隊を結成して鎮圧させようと画策した(木村は全ての必要経費を出すと言っておきながら、暴力団のトップ達が請求書を提出しようとしたタイミングで、木村が姿を眩ませたため、反共抜刀隊は結成されなかった)
 五代目最高裁長官を選出する際には、四代目最高裁長官が田中二郎を押していたのに対して、木村が横やりを入れて石田和外を選出させるなど、戦後長らく暗躍した。
 法務総裁時代からのサイン数は14人ほど。

犬養健(1952.10.30-1954.05.21)
 犬養毅の子で、白樺派の小説家。
 彼は造船疑獄で佐藤栄作らが逮捕されたとき、吉田茂首相の命令で検事総長に対して指揮権を発動し、佐藤らの起訴をやめさせたことで知られている。
 退任間際に大量のサインをしている。サイン数は40人以上と見られる。

加藤鐐五郎(1954.05.22-1954.06.18)
 医学博士。
 彼の在任期間は1月程度だったが、執行数/就任日数*同時期死刑囚総数の割合では最も係数の高い人物。
 彼が死刑について問われたときに、言った言葉。
 「医者であるボクが、山積した命令書にポンポン、ハンコを押して一気に殺してしまうなんて、ずいぶんひどい話だ。しかし、死刑囚というものは、毎日、お迎えの影に怯えて神経をすり減らしている。これは一種の人間残酷物語だ。そこで、どうせ助からぬ命なら、一日も早く処刑して、本人の気持ちを楽にしてやることが本当の慈悲ではないか。ハンコを押すときの気持ちは、無想無念というか、とにかく厳粛な気持ちだったなあ」。

小原直(1954.06.19-1954.12.07)
 検察官僚。戦前に司法大臣の経験あり。
 検察内部の経済派の領袖であり、公安系の鹽野季彦が率いる鹽野閥に対して、小原閥を率いた。東京地検特捜部の生みの親である馬場義続も、彼の系統である。
 在任中のサイン数は10人を出ない。

花村四郎(1954.12.10-1955.11.21)
 弁護士。
 彼は55年6月の法務委員会で「極悪犯人であってもやはり無期懲役刑くらいにしておくいうようなことは、社会不安を増大せしむる一つの大きな原因になると申し上げていいと私は思う。でありまするから、死刑廃止論も相当あるようでありますけれども、しかしそういう極悪犯罪を犯す者は、やはり一番人間の大事な命を取られるのであるというような気持を持たせることによって、そういう恐るべき犯罪をなくしていくということを考えなければならないのゃないか」と述べている。
 彼のサインによって55年1月末頃から2月にかけて16人が執行されている。このうち9人が大阪拘置所の死刑囚であった。当時同拘置所にいた死刑囚に言わせると、「処刑の嵐」だったそうである。
 11月に、おそらく脱獄死刑囚菊地正のサインあたりを最後に退任した。サイン数は32−35人。

牧野良三(1955.11.22-1956.12.20)
 彼は在任期間の長さのわりには、サイン数が少なかった。サイン数11人。

中村梅吉(1956.12.23-1957.07.09)
 前任者より在任期間が半分の割には、サイン数が2倍くらいである。
 彼は57年4月に出版された「四人の死刑囚」という歌集に序文を書いている。その内容は、なぜ凶悪犯罪を犯した彼らが、かくも美しい歌を作れるのか?というものであった。なお、彼のサインによって、この歌集が出版された月に9人が執行されている。(さすがに当時収監されていた、4人のうちの唯一の生き残り死刑囚のサインはしなかったが)
 サイン数は20半ば−30人くらい。

唐澤俊樹(1957.07.10-1958.06.10)
 内務官僚出身。旧制水戸高校時代の教え子には、元最高裁判事の岩田誠らがいる。
 彼が死刑について問われたときに、言った言葉。
 「毎日、いつ”押せ”といってくるかビクビクしていたもんだ。しかし、命令書が回ってきた以上は、どうしても決済しなくてはならない。たしか十人だったかな。そのたびに家に帰って仏壇にお灯明を上げて、ボクの手にかかって死んでゆく人達の冥福を祈ったなあ。ボクの人生で、これほど不愉快に思ったことは、かつてなかった」
 彼は着任早々7月にサインをしている。官僚の中には、大臣が右も左もわからないうちに「決済してください」と言って、決済させることもあるようである。
 サイン数は15人ほど。

愛知揆一(1958.06.12-1959.06.17)
 前任者とは対照的に、当初はまったくサインしなかったが、辞め際に大量にサインした。
 6月の退任間際に10人前後のサインをしている。サイン数は15人前後。

井野碩哉(1959.06.18-1960.07.15)
 彼が着任して間もなく、死刑囚松下今朝敏による「死刑受執行義務不存在確認訴訟」の件で、東京地裁が、判決まで松下の死刑執行停止命令を出した。そのため、当局が他の死刑囚の執行に関して協議したため、全国的に死刑執行が停止した。
 この行政訴訟に関しての国会質問で、法相は「死刑執行の責務はあるが、するしないは私の権限、おまかせいただきたい」と答弁している。
 当局は、執行がない状況を打破しようと、「これなら誰が見ても処刑されても仕方のない凶悪犯」である栗田源蔵を選んで、サインした。これをはずみに、11−12月に13人を執行した。
 サイン数は40人前後。

小島徹三(1960.07.19-1960.12.05)
 彼が死刑について問われたときに、言った言葉。
 「ボクは、死刑の決済は大臣の職責と割り切っていた。記録を読むと死刑にされても仕方のないケースばかりだ。ボクはハンコを押すとき、なんの感情も持たなかった。法はちゃちな感情を超越したきびしいものだよ」
 サイン数は15人前後。

植木庚子郎(1960.12.08-1962.07.17)
 彼が死刑について問われたときに、言った言葉。
 「第一審から最終審までの裁判記録を読むと、事犯のむごたらしさに、ひどく腹が立った。しかし、上申書を読むと、こんな乱暴な取り調べ方があるかと、警察の態度にこんどは腹が立った。そして、最後に、答弁書を読んだら、結局は死刑にしても仕方ないと思った」
 また、彼は在任中に色々な人の陳情を受けた。福岡事件では、殆ど面識のない大学の同期生から、サインをしないよう求められたり、松山事件の斎藤幸夫氏の母ヒデさんの陳情を受けたりした。斎藤ヒデさんの「息子は無実です。執行しないでください」というのに、「お母さん、ボクを信用して下さい」と答えている。
 サイン数は11人。

中垣國男(1962.07.18-1963.07.17)
 彼は執行推進派で知られている。
 彼が就任したころ、前任者が、あまりサインしなかったので、死刑囚が増えていた。さらに、一部の死刑囚に支援団体がついていたりしていたので、法務当局は苦り切っていた。執行に協力的な彼のもと、支援団体のついていた藤本松夫(62年9月)、李珍宇(同11月)、そして退任間際に孫斗八(63年7月)のサインをしているが、平沢貞通の執行には失敗している。
 彼は着任早々の数ヶ月に19人分のサインをしている。
 63年7月、退任間際に孫のサインをした。サイン数は33人。

賀屋興宣(1963.07.18-1964.07.17)
 近衛・東條内閣時代に大蔵大臣をつとめ、戦時経済を担当したため、A級戦犯に指名され、終身刑を言い渡された。
 彼はサインをしていない。それは彼自身がA級戦犯として東京裁判で死刑の危険にさらされたのと、無関係ではないかもしれない。同じA級戦犯として裁かれた被告の内、7人に絞首刑の判決が出されており、心情的に死刑執行の命令を出すのに、相当の抵抗があったのではないだろうか。

高橋等(1964.07.17-1965.06.02)
 彼が在任した時代は、各地の刑場や拘置所の改装期にあたり、あまり死刑執行が行われなかった。
 サイン数は4人。

石井光次郎(1965.06.03-1966.12.02)
 緒方竹虎の緒方派を継ぎ、石井派を率いた。石井派には、元法務大臣、中垣國男や、後の法務大臣、坂田道太、田中伊三次、長谷川峻らが属していた。
 彼が在任した時代も、各地の刑場や拘置所の改装期にあたり、あまり死刑執行が行われなかった。
 サイン数は2−3人

田中伊三次(1966.12.03-1967.11.24)
 弁護士。
 彼は死刑執行を公にしようとしたことで、マスコミ・法務当局から批判された人物である。
 彼は67年に、新聞記者に「死刑執行の様子をみんなで見ないか」と言って、顰蹙を買っている。彼はさらにそれを当時の刑事局総務課長(谷口繁義氏の起案書審査で疑問を持った検事と同一人物)に相談して、ひどく叱られている。
 さらに10月16日には新聞記者を集めて、うずたかく積み上げられた書類を指さして「23人の死刑囚の方々の執行命令にサインしました。このことは新聞にお書きになっても結構ですよ」と言った。このとき同席した秘書官は、苦り切った表情をしていたという。
 各社の新聞記者達は、このことを公表したら、自分たちも法相と同じレベルになってしまうと、無視することにしたが、サンケイだけは「公表して、世間とともにその無神経さをわらうべきだ」と言って、カメラマンを呼び寄せ、法相がサインするポーズをするのを撮影させている。(撮影の時に法相がとったポーズは、左手に数珠・右手に赤鉛筆を持って、机に誕生仏を置いて、深刻そうな表情でもってサインする。という「図」だったそうである)
 彼は67年10月に23人分のサインをした。その結果、10−11月に23人が執行された。サイン数は24−25人。

赤間文三(1967.11.25-1968.11.29)
 彼はサインをしていない。サインを求められると、腹痛を起こしたり、「そんなことすると、今度はボクにお迎えがくる」といって、逃げたそうである。

西郷吉之助(1968.11.30-1970.01.14)
 西郷隆盛の孫。
 彼が就任したころ、前任者が、サインしなかったので、死刑囚が増えていた。なお、彼が在任中に山本宏子の恩赦を決定している。
 彼はサインするときは一気にしている。そのせいか、(連続していない)たった2月間で17人が執行されている。サイン数は18人。

小林武治(1970.01.14-1971.02.08)
 彼は「野党がギャアギャア騒いでも、予算に指一本触れることはできない」「閣僚として、予算委員会に毎日出なければならないのは退屈この上ない」などと発言したことで、辞任に追い込まれた人物である。
 また、長沼ナイキ訴訟では一審の福島重雄裁判長の忌避を申し立てた。
 執行推進派で「いくらでも押してやるから、どんどん持ってこい」と当局に言っている。
 執行があったのは、70年6月−12月の間だが、山場は10月の15人執行である。これは一月の執行数としては、戦後最大である。サイン数は26人。

秋田大助(1971.02.09-1971.02.16)
 自治大臣であったが、小林武治が放言問題で引責辞任したため、急遽法務大臣を兼任することになった。
 彼はサインをしていない。任期が短すぎたためだろう。

植木庚四郎(1971.02.17-1971.07.04)
 法相就任は二度目。彼は、このときはサインをしていない。

前尾繁三郎(1971.07.05-1972.07.06)
 大蔵官僚出身。池田隼人が率いた宏池会を継承し、前尾派を率いた。
 サイン数は20人前後。

郡祐一(1972.07.07-1972.12.21)
 内務官僚出身。
 サイン数は4−5人。

田中伊三次(1972.12.22-1973.11.24)
 二度目の就任。このときの彼の言葉。
 「死刑囚に祈った?とんでもない。どうして極悪非道なことをやった人殺しの冥福を祈らにゃあならんのかね?合掌するのは被害者の霊魂にであって、これから死刑を執行するから、どうか成仏してくださいと、被害者の霊に合掌したんです」
 サイン数は3人。

中村梅吉(1973.11.25-1974.11.10)
 二度目の就任。
 サイン数は4人。

濱野清吾(1974.11.11-1974.12.09)
 彼はサインをしていない。任期が短すぎたためだろう。

稻葉修(1974.12.09-1976.12.24)
 任期が2年と長かった。この間に多くのサインをしたため、死刑囚が少なくなった。
 サイン数は29人。

福田一(1974.12.09-1976.12.24)
 任期中にハイジャックによる超法規的措置で、政治犯や一般刑事犯を釈放するという事件があった。
 彼は就任記者会見で「制度に対する賛否は別に論ずるべきであり、個人の主義、感情の入る余地はない。それが法務大臣の大事な仕事の一つであれば、よく調べて押すつもりである」と言っている。
 まとめてのサインはなく、断続的に1人づつサインした。サイン数は4人。

瀬戸山三男(1977.10.05-1978.12.06)
 改憲論者として知られた。
 サイン数は3人。

古井喜實(1978.12.07-1979.11.09)
 彼は熱心な死刑廃止論者であった。在任中に平沢貞通の恩赦をなんとか実現できないかと口にしたこともあった。
 彼は、ある少年死刑囚1人分のサインをしている。このとき彼は、記録を何日もかかって丹念に読んだあと、大臣室から人を遠ざけ、三時間くらい考えた後にハンコを押した。

倉石忠雄(1979.11.09-1980.06.12)
 憲法について「現行憲法は他力本願だ、やはり軍艦や大砲が必要だ」「こんな馬鹿馬鹿しい憲法を持っている日本はメカケのようなもの」といった発言をしている。
 理由は分からないが、彼はサインをしていない。

奧野誠亮(1980.07.17-1981.11.29)
 自治官僚出身。その前には鹿児島県警察特高課長の経歴を持つ。
 彼が死刑のサインについて問われたときに、言った言葉。
 「(昭和)55年中1月から12月まで、あるいは56年中1月から12月まで勤務したことはないんですわ、あいだにかかってるんですよ。まあ、そういうことでご判断ください」
 実際には、二人分のサインしている。

坂田道太(1981.11.30-1982.11.26)
 2000年5月14日、彼は存命なのに、森喜朗首相(当時)に「故」をつけられ、死人扱いされた人物である(2004年1月13日没)
 辞め際にサインしている。サイン数は1人。

秦野章(1982.11.27-1983.12.26)
 警察官僚出身。
 辞め際にサインしている。サイン数は1人。

住栄作(1983.12.27-1984.10.31)
 内務→労働官僚出身。
 辞め際にサインしている。サイン数は1人。

島崎均一(1984.11.01-1985.12.27)
 彼は79年以来、毎年1人執行の慣例を破った。
 85年5月2人、2月後に1人のサインをしている。サイン数は3人。

鈴木省吾(1985.12.28-1986.07.22)
 任期の終わり頃にサインしている。サイン数は2人。

遠藤要(1986.07.22-1987.11.06)
 任期の終わり頃にサインしている。サイン数は2人。

林田悠紀夫(1987.11.06-1988.12.26)
 農林官僚出身。
 任期の半ばにサインしている。サイン数は2人。

長谷川峻(1988.12.27-1988.12.29)
高辻正巳(1988.12.30-1989.06.02)
谷川和穂(1989.06.03-1989.08.09)
 彼らはサインをしていない。このうち、高辻は元最高裁判事。

後藤正夫(1989.08.10-1990.02.27)
 任期の半ばにサインしている。サイン数は1人。
 これ以降、3年以上にわたって、執行なしの状態が続く。

長谷川信(1990.02.28-1990.09.12)
 任期が短かったため、サインをしていない。

梶山静六(1990.09.13-1990.12.28)
 田中派、竹下派に属し、この時代に竹下内閣創設に貢献し、竹下派七奉行の一人と言われた。最終的に梶山派を率いた。
 任期が短かったため、彼らはサインをしていない。

左藤恵(1990.12.29-1991.11.04)
 彼は浄土真宗の僧侶で、殺生を禁ずる宗教の教えから、サインをしなかった。
 在任中に、浄土真宗大谷派が発刊した「死刑制度と私たち」に寄稿したときの言葉。
 「新しい真実が出てきて誤審となったとき、死刑を執行してしまってからではとりかえしがつきません。国民の総意として死刑を廃止する日の一日も早からんことを願います」

田原隆(1991.11.05-1992.12.10)
 前任者が長期間サインをしなかったためか、彼もサインをしていない。

後藤田正晴(1992.12.11-1993.08.07)
 警察官僚出身の彼は、久々にサインをして、物議をかもした。
 執行再開に関しての質問に対しての答え。
 「死刑制度があり、裁判官が厳密な調べをして判決を下している。三権分立で裁判所に重い役割を担わせておきながら、行政側の法相が判決を執行しなくては、法秩序、国家の基本が揺らぐ。法相が個人的な思想・心情・宗教観でやらないなら、はじめから大臣に就任することが間違いだと思う。就任時に分からなかったのならば、(分かった)その段階で法相の職を辞するのが当然である」
 任期半ばに3人分のサインをしている。

三ヶ月章(1993.08.08-1994.04.27)
 彼は民間出身。
 任期半ばに4人分のサインをしている。

永野茂門(1994.04.28-1994.05.07)
 陸軍士官学校出身の国防族。
 死刑制度の積極的支持を表明していたが、「南京大虐殺はでっち上げだ」と発言して、すぐに辞任に追い込まれた。
 任期が短かったため、サインをしていない。

中井洽(1994.05.08-1994.06.29)
 任期が短かったため、サインをしていない。

前田勲男(1994.06.30-1995.08.08)
 同僚から、サインをしないよう言われ、サインをしないと言っていたが、二回にわたり5人分のサインをしている。

田沢智治(1995.08.09-1995.10.08)
 彼は死刑廃止派の議員グループに属していたが、法相就任直後に脱退している。しかし、任期が短かったため、サインをしなかった。

宮澤弘(1995.10.09-1996.01.10)
 元総理大臣・宮澤喜一の弟。
 任期は短かったが、3人分のサインをしている。

長尾立子(1996.01.11-1996.11.06)
 初の女性法務大臣。
 任期半ばに3人分のサインをしている。

松浦功(1996.11.07-1997.09.10)
 二回にわたり、7人分のサインをしている。

下稲葉耕吉(1997.09.11-1998.07.29)
 警察官僚出身。
 彼は在任中に、一度執行命令を撤回させられている。
 97年12月にサインをしたのだが、執行を阻止しようとする人が、人身保護請求を出した。これに対する答弁書を作らないといけないのだが、各部署の決済が必要で、その間に執行期限が切れてしまった。結局答弁書が出来たのは、執行当日と目されていた19日であった。
 法務当局はこの事態に大変憤り、人身保護請求が出されたときに対応するマニュアルを作成したと伝えられる。
 任期の終わり頃に3人分のサインをしている。

中村正三郎(1998.07.30-1999.03.08)
 就任直後に検事総長を呼びつけて「お前は俺の部下だ」とわざわざ言ったり、中央更正委員会で承認された無期懲役で仮釈放中の人に対する復権申請に対して「極悪人を復権させる必要などない」と言って、当局を敵にまわしていった。その結果、アメリカの有名俳優の個人情報を個人的な興味から手に入れたことを暴露されて、辞任に追い込まれた。
 彼は死刑執行に関して、「執行の事実と人数」という情報を公開すると表明した。
 そして、その表明からすぐに3人分のサインをしている。

陣内孝雄(1999.03.08-1999.10.04)
 建設官僚出身。
 任期の終わり頃に、3人分のサインをしている。

臼井日出男(1999.10.05-2000.07.03)
 警察官僚出身。
 就任からあまりたっていない12月に2人分のサインをしている。

保岡興治(2000.07.04-2000.12.04)
 元裁判官、弁護士。
 退任間際に、3人分のサインをしている。

高村正彦(2000.12.05-2001.04.26)
 弁護士。旧河本派を継承した高村派を率いた。
 色々忙しかったのと、任期が短かったためか、サインをしていない。

森山真弓(2001.04.27-2003.09.21)
 女性としては二人目。労働官僚出身。
 1年に1回ずつ3回、5名分サインした。

野澤太三(2003.09.22-2004.09.26)
 国鉄出身の技術官僚。
 任期の終わり頃、吉岡(旧姓宅間)守等2名のサインをした。

南野知惠子(2004.09.27-2005.10.30)
 女性としては三人目。
 看護師出身で、厚生分野を歩いてきた人物。法務関係については素人と言われ、国会の質問に対して答弁できず、質問に対して「私を殺さないで」などと悲鳴を上げたこともある。
 任期の終わり頃に、1名のサインをした。

杉浦正健(2005.10.31-2006.09.25)
 2001年5月の自民党司法制度調査会で、裁判員制度について「日本は平安時代からお白洲(しらす)があった。お上が裁くのよ。国民参加なんて日本の風土に合わない」と発言した。
 死刑については、真宗大谷派の信者であるために廃止論者である。就任時に「私は(死刑執行の)サインしません」と発言。この発言の一時間後に「個人としての心情を吐露したもので、法相の職務執行について述べたものではない」とコメントした。
 06年9月上旬から、法務官僚との間で執行サインを求める攻防があったが、結局退任までサインをしなかった。

長勢甚遠(2006.09.26-2007.08.26)
 労働省出身の官僚。
 任期の終わり近くに、選挙運動費用収支報告書の虚偽記載や、実家の不動産を登記せず、固定資産税を払っていなかった問題、政治資金規正法違反などの発覚・指摘が相次いだ。
 死刑については、「法治国家で確定した裁判の執行は厳正に行われるべき。法の規定に沿って判断したい」と発言。
 任期中に3回執行、10名分のサインを行った。一大臣で二桁執行は、約30年前の稻葉修以来。また、07年4月の執行は国会開会中であり、近年では異例ともいえる。

鳩山邦夫(2007.08.27-2008.08.01)
 明治以来の四世議員。元首相の鳩山一郎の孫にして、元民主党党首鳩山由紀夫の弟。
 「アルカイダ発言」「国防総省からご馳走発言」「志布志事件についての発言」等、失言が多かった。死刑についても「法相が絡まなくても自動的に死刑執行が進むような方法があればと思うことがある」「(死刑執行は刑確定から半年以内という規定について)法律通り守られるべき」「ベルトコンベヤーというのは何だが、(執行の順序が)死刑確定の順序なのか乱数表で決まってるのか分からない」などと発言している。
 就任期間中に13名分のサインを行った。その執行数の多さから、朝日新聞のコラムで「死神」と書かれ、抗議している。

保岡興治(2008.08.02-2008.09.23)
 二度目の就任。
 就任期間は短かったが、内閣辞職決定後に3人分のサインをしている。

森英介(2008.09.24-2009.09.15)
 三世議員。森コンツェルンの創設者で衆議院議員である森矗昶の孫。森美秀元環境庁長官の息子。叔母の夫は、元首相の三木武夫。
 3回9名分のサインを行うが、最初の1回には飯塚事件の死刑囚の執行を行っている。

千葉景子(2009.09.16-2010.09.16)
 旧社会党系民主党議員。「死刑廃止を推進する議員連盟」に所属していたが、法相就任からまもなくして脱退。
 長らく死刑廃止を訴えていたため、死刑執行をしないと見られていたが、1回、東京拘置所に在監の死刑囚2名の執行を行った。その際に、自分がサインした死刑囚の執行に立ち会っている。
 その後、東京拘置所の刑場を報道陣に公開した。
 なお、死刑執行サイン後の2010年7月26日の参議院議員選挙において落選したため、その日以降は議員ではなく、民間人である。

柳田稔(2010.09.17-2010.11.22)
 旧民社党系民主党議員。本人曰く、「20年近い間、法務関係は1回も触れたことはない」とのこと。
 11月14日に「法務大臣とは良いですね。二つ覚えときゃ良いんですから。 『個別の事案についてはお答えを差し控えます』と、わからなかったらこれを言う。後は『法と証拠に基づいて適切にやっております。』まあ、何回使ったことか」などと発言したことが問題となり、辞任させられた。
 期間が短かったため、サインしていない。

仙谷由人(2010.11.22-2011.01.14)
 旧社会党系民主党議員。菅内閣では内閣官房長官に任命されたが、柳田法相が舌禍で辞任させられたため、法相を兼務することになった。
 参議院で自民党が尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件の対応に関して提出した問責決議案が、11月26日に可決している。
 期間が短かったため、サインしていない。

江田五月(2011.01.14-)
 二世議員。旧社会民主連合系民主党議員。死刑については、「死刑というのはいろんな欠陥を抱えた刑罰だ。国民世論や世界の大きな流れも考え、政治家として判断すべきものだ」と発言し、後に「欠陥は言い過ぎだった」と釈明した。



参考資料

死刑の考現学(勢藤修三)
日本の死刑(村野薫)
法務統計月報
国会の答弁


(C)笑月


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