裁判所・部 東京地方裁判所・刑事第二部
事件番号 平成16年合(わ)第354号
事件名 銃刀法違反等
被告名 熊谷徳久
担当判事 毛利晴光(裁判長)宮本聡(右陪席)大村るい(左陪席)
その他 書記官:西村
検察官:湯澤昌己、南智樹、中山大輔
日付 2005.12.2 内容 論告求刑

 開廷前に、ワゴンに入れられた資料が運び込まれ、書記官がそれを裁判官の机の上においていた。
 眼鏡を掛けた黒いスーツ姿の若い弁護人は、先に来ていた。10時20分ごろ、年老いた弁護人が入廷する。入廷と共にベージュのコートを脱ぐ。その下には灰色のスーツを着ていた。
 中山、南の両検察官も、同じ頃入廷する。
 傍聴人は、開廷前は15人ぐらい来ていた。あの、被告に険しい視線を向けていた傍聴人も居る。
 開廷前、検事たちは、キオスク事件のことを小声で何か話していた。弁護人二人は概ね無言で、若い弁護人は手帳をめくっていた。
 紺色の制服の刑務官二人に連れられ、被告は入廷した。黒いレザージャケットの下に白い服を着ている。ジーンズ、白いソックスにサンダルを履いている。青いタオルを持っていた。何時も通りスキンヘッド。
 裁判官の入廷と共に縄は外される。
 そして、論告が始まった。

−論告−
1・事実関係
・平成16年5月6日、東京駅に灯油をまいて放火し焼損しようとしたが、目的を遂げず
・山陽警備で、Sに拳銃を突きつけ金銭を強取としたが目的を遂げず
・平成16年5月29日、Xに対し拳銃を一発発射し、右頭部に命中させて殺害し、金員を奪い(横浜事件)
・平成16年6月23日、Yに全治約一ヶ月の傷を負わせた(渋谷事件)
・上記第4記載の拳銃を、実包五発と共に不法に所持した

 平成16年6月23日、渋谷事件を敢行し、警視庁に出頭し、横浜事件について自白する。横浜事件については既に捜査員が把握しており、自首は成立しないのは首肯できる。他の事件が自首に相当するか否か検討する。
 平成16年6月26日に警視庁本部に出頭し、現行犯逮捕される。
 a警部補は、横浜事件について関与を疑っていた。言葉を尽くして説得したが、被告は、やってないと否定していた。
 b管理官は被告を一人で取調べ、被告は「白楽天の事件は俺じゃないよ」と述べた。言ってもいないのにそのように言うということは犯人に違いない、とb管理官は思い、短時間で取調べを終える。その後のa警部補の取調べでは自白せず、7月5日には「じきに解る事だ、いいじゃないか」と述べていた。その後、「世間がびっくりする」などと述べて自白した。
 被告の自白は7月2日(前記の5日が間違いかこの部分が間違いかは不明)に成されたが、自発的に成されたわけではない。弁護人の主張に理由は無い。
 本件犯行に至る経緯には、一片の情状酌量の余地も無い。
 昭和61年に出所し、事業に失敗し、その後、知人を連帯保証人にして事業資金を手に入れ、事業を展開したが、それも失敗する。
 屋台ラーメンを開業し、多少の成功も収めるが、結局失敗する。
 被害者に全治二週間の怪我を負わせた強盗致傷事件で、平成8年5月7日、懲役六年に処され、網走刑務所に服役する。
 被告は、金を手に入れ自分を馬鹿にした奴らを見返したい、等と考え、キオスクには五億円ある、という話を思い出し、獄中で計画した。還暦を過ぎているため失敗は許されない、相手に手心を加えない、とも考えた。
 そして、早く出所するため、真面目に服役した。
 出所後に短期間、警備会社に勤めていた。
 その後、キオスクをやろうと考え、そのために車を盗んで逮捕され、捜査、公判段階を通じて目的を秘し、情を知らないAに電話してロッカーの銃を移動させた。
 その後、判決を受け福島刑務所に服役する。多額の現金を運ぶために、刑務所では体力作りを行っていた。
 出所後、ゴム手袋、軍手、変装用のヘルメット、拘束用バンドを買い求める。
 キオスクに侵入したが、土壇場で実行できなかったので腹を立て、誰もやった事のないと思われる東京駅放火をしてみようという気持ちと、そして、目印の為に、火をつけた。その後、他の事件を敢行する。
 強盗殺人未遂は、キオスク失敗の腹いせとして敢行した。
 劣悪極まりなく、極悪非道というしかない。
 網走刑務所服役時から事件を計画していた。
 心境につき「落ちぶれても浮浪者にはなりたくない。失敗したらその時だ。命をかけた戦争である」等と述べている。虚栄心に捕らわれていて醜悪である。
 被告は、福島刑務所を出所するや東京に戻り、道具を買い揃え下見をした。
 ゴールデンウィークは銀行が休みであり、より多額の現金が在ると考えた。
 周到な準備をしたものの事務所が見つけられず、腹いせと虚栄心を満たすため放火する。
 被告は一層決意を強固にした。「キオスク事務所に行けずにショックだった。相手の事を考えれば失敗する」等と考えた。そして、かつて勤務していた山陽警備に強盗に入る。従業員が抵抗すれば射殺する決意を固め侵入した。
 給料日ではなかったため、金銭の強取には失敗した。また、Sは抵抗しなかったため、危害を加えられずに済んだ。
 その後、白楽天の事を思い出し、X方に多額の現金があると考え、強盗に入る事に決めた。
 Xの行動パターンを把握し、X家周辺は人通りも少ないため、翌日に決行する事に決めた。その後、被害者を射殺した。
 被告は、横浜事件で43万円しか奪えなかった事を、人を殺してこれだけか、失敗した、と考え、渋谷事件を計画した。
 その後、連日のように渋谷駅の下見をし、抵抗すれば撃ち殺す、何人も撃ち殺すというのは現実性が無いので人の少ない日を狙う、等、計画を練る。
 その後、渋谷事件を敢行した。周到な準備を行って敢行された犯行である。
 キオスク事務所に行けなかった、渋谷事件ではYの私物しか奪えなかった等、金銭は奪えなかったが、それは形責を軽くしない。通り魔殺人、無差別殺人の危険性を超えるものである。
 何れも重大凶悪な犯行であり、横浜、渋谷事件は強固な犯意に基づいて行われたものである。
 横浜事件では、Xに、首筋に銃を突きつけ、「黙れ、静かにしろ、家の中に入れ」等と言い、背を押したが、被害者は悲鳴を上げた。
 殺害を決意し、頬に押し付けた銃を発射した。Xの後頭部から血が出るのを見て、被告は、死亡したと思った。屋外で撃った為近隣住民に気付かれたと考え、Xが持っていた金を奪って逃げる。
 Xは、帰宅した孫に発見された。その後、病院で死亡した。
 被告は、「黙れと言うのだから黙ればよかったのに。家の中に入れというのだから入ればよかったのに。Xさんも唸りゃ良かったんです」等と述べている。
 被告は、予定通りにXを殺害した。殺意は強固であり、5〜6千万の目標額に達するまで強盗を続けるつもりであり、(横浜事件について)「いわば通過点みたいなものです」等と述べている。
 渋谷事件では、Yを発見し、金を運んでいると考えた。そして、同人が一人であった事などから殺害を決意する。
 背後から「おい待て動くな」と言い、銃を突きつける。Yが紙袋を取られまいと体に抱きしめたところ、右腹部に銃を撃ち込んだ。腹を撃てば死ぬと考えていた。Yから3〜40センチの所から銃を撃っている。Yが後ずさったため距離は離れた。Yの恐怖を一顧だにせず銃を発射している。2,3センチずれていれば、大動脈が切れており、死亡する危険性は大きかった。
 山陽警備事件では、抵抗すればSを殺すつもりだった。すぐ近くに銃を突きつけていた。Sは生きた心地がしなかった。
 キオスク事件については、段ボールの上に灯油を撒き、火を放った。犯行当時7人の従業員が居た。可燃物が多くあった。実験では、点火後2分でダクトが燃焼した。
 事件について、被告は「たくさんの犠牲者が出て、テロと変わらない犠牲者が出ると解っていたが、これは戦争であり、幾ら犠牲者が出ようが私には関係ありません。東京駅を全焼させるつもりでした」等と述べている。
 被告は、渋谷事件では脅迫のために拳銃を突きつけ過失で発射した旨述べているが、不合理である。
 福島刑務所出所後の心境として「私は、生きている証として事業を起こすために、心を鬼にし、凶悪犯罪を計画しました」と述べている。
 被告は弁解を一貫させる事もできない。
 第三回公判では「びっくりして引き金を引いた」
 第四回公判では「腹を狙って撃った」と述べている。
 第三回公判の供述は信頼できない。殺意を持っていたと考えねば理解できない。横浜、渋谷事件では、本で得た知識どおり、1メートル以内で銃を撃っている。
 「横浜で人を殺しているので、人を殺す事への躊躇、倫理観などはありませんでした」と被告は述べている。
 また、「オフレコのつもりで書いたんですが、まあいいでしょう」等とのべ、自分の供述である事を認めている。
 殺意の有無ついて、如何でもいいと思ったと述べているが、信頼できない。
 X一家への皆殺しの意図なども、其処まで考えなかったと述べているが、理由を説明できない。

 ここで、朗読する検事が交代した。

 最も重視されるべき事は、Xの命が奪われた事と、Yが重傷を負った事である。
 Xは、一時期骨董品を扱い、結婚し昭和28年に長男をもうけた。
 白楽天を身を粉にして盛り立て、大きな店に成長させた。
 若い頃結核を患った他は病気はしていない。
 幸福な生活を送っていた。多くの趣味を持つ教養人だった。妻Wを伴いクラシックコンサートによく行っていた。愛情に満ち溢れた家族と楽しい時間を過ごしていた。  その無念と恐怖は言葉を尽くしても言い表せない。
 Yは、心身ともに重大な後遺症を負っている。
 被害当時32歳の働き盛りだった。姉が病弱である、父が入院している等の事情で、家計を支える存在だった。
 6時間の緊急手術を受けた。30分搬送が遅れていれば、出血多量のショックで死亡していた。今なお後遺症との戦いを続けている。十二指腸損傷等は完治したが、神経が切断されて右足が動かない。見舞いに来た同僚に対し「お前らは普通に歩けていいよな」等と述べている事、看護婦に対する言動が、その心境を物語っている。日常生活に大きな障害がある。右足を動かす事ができず、装具の装着に五分かかる。社会生活を送る事ができず、勤務は困難である。
 精神的な傷害については、家に引きこもっている、家族と会話しないなどの点から明らかである。食欲障害、睡眠障害などが見られ、通院によって改善の兆しは見えない。「俺の気持ちは解らない」と家族に言い、家族に物をぶつけるなどもしている。上役が見舞いに来ても、余り喋らない。
 家族の処罰感情は峻烈である。Xの妻Wは「大事な人だった。主人が死んだのは信じられない」と述べ、第一回公判傍聴の後、体調を壊し、家族に傍聴を止められている。第八回公判では「家中に夫の写真が飾ってある。夫の事を考えると泣いてしまう。その場にいる他の人は、私が何故泣いているのか解らないので不思議な顔をする」と述べている。
 処罰については「夫は誰にも迷惑をかけていない。被告を死刑にして欲しい。憎しみを抱いて暮らすのは辛い。被告は何故生きているのか。被告は死刑にして欲しい」と述べている。
 長男は
「熊谷は脅さず人を撃ち殺す男です。私には信じられない」
「被告に殴りかかりたい」
「殺した人の人権が言われるが、殺された人はどうなるのか」
と述べている。
 Uは「罪の意識を感じていると思っていたが、そういう事は無く、堂々と入ってきて、傍聴席を見渡している。許せたら楽になると思えるほど、許せない気持ちは重い。父を殺した被告は死刑にして欲しい」と述べている。
 孫は「僕が少し早く帰ってきたら、お爺ちゃんは殺されなかったかもしれない」と考えている。同人も被告の死刑を望んでいる。遺族感情は尊重されねばならない。それに答えるのは司法の責務である。
 Yの家族の感情も厳しい。
 Yは「(病院で?)家族が帰った後、何でこんな事になったのか、と泣いている。被告は、一生刑務所にいるか、死刑にして欲しい。私の体の保証は誰が保証してくれるのか」と、悲痛な叫びとも言うべき言葉を述べている。
 母は「この事件だけでも被告を死刑にして欲しい」
兄は「母はもう年なので、長男である私が復讐してやりたい。Yと同じ苦しみを味わわせてやりたい」と述べている。これらも十分に斟酌する必要がある。
 社会的影響も重大である。
 横浜事件ではX家の周辺には人通りが少なくなり、戸締りをするようになった。
 渋谷事件では、銃を持っている男が逃亡している事で、周辺住民に対し絶大な恐怖を与えた。小学校は被告が逮捕されるまで校門の施錠を行った。
 両事件は誰もが被害者になりえた。新聞で大々的に報道された。
 キオスク事件では、電車数線に遅延が生じた。非難が遅れれば死者が出た可能性がある。
 短期に四件の犯行に及んでいる。
 放火未遂では、被告は「報道を見て、現金が奪えなかったのは悔しかったが、目印を残せて満足でした」と述べている。
 横浜事件の事を人が話した時、「ああそう」と他人事のように述べている。同事件について「Xさんには申し訳ありませんが、失敗した事件でしたので金はパーッと使ってしまいました」と述べており、奪った金は風俗などで使っている。「やってしまった事に悔いは無いよ、悔いがあるのはキオスクが探せなかった事だ」と、取調べ時には述べている。
 反省や人間らしい気持ちは見られない。犯罪的な性格は改善しがたい。
「事件を起こすことは私にとって食うか食われるかの戦争である」
「私は事件に失敗して運が無かった。被害者も私に狙われ運が無かった。X社長も抵抗したからはじかれた。命を懸けていたんだ。謝罪しろと言える立場か」
と捜査官に述べている。
 反省の弁は「死刑になって仕方が無いです」と述べるのみであり、弁護士からも、もう少し無いのか、と言われた。「何時までも被害者の事を考えていたらおかしくなる」とも述べている。Yへの謝罪文があるが、以上の供述からすると信用出来ない。
 被告は少年時代から窃盗を行い少年院に入っている。成年になっても侵入盗を行っている。粗暴犯的犯罪傾向は著しい。
 平成8年に網走刑務所に服役した頃からキオスク事件を計画している。
 平成16年7月に福島刑務所を出所。
 事件について「今回の一連の事件は覚悟の上であり、被害者に謝罪する気は無い」と述べている。また、今回の事件で逮捕後も、出所したらまたキオスクをやろうと考えている。被告の矯正の可能性は絶無である。
 「死刑の覚悟はしているが、このままでは日本は終わりだよ。僕みたいなのが沢山出てきて日本をめちゃくちゃにしなければ」等とも述べている。
 被告は戦災孤児であり、ごみをあさって生活していて、不遇であったと言えるが、そのような人は多く居る。
 Xの妻は「何が戦災孤児ですか。私達の世代はみんなそうです。甘ったれるのもいい加減にしなさい」と述べている。
 被告は、男らしさを見せ、堂々と自首したいと考え、パフォーマンスのつもりで自首する事に決めた。
 警視庁にレンタカーでのりつけ、それを報道させようと考えた。正装し、サングラスをかけ、「車で中に入らせなければ自首しない。こっちは覚悟してるんだ」と述べ、車中で煙草を吸うなどしており、自首は悔悟に基づくものではない。
 各犯行は何れも悪質であり、被告は更に犯罪の機会を窺っている。
(ここで、永山判決に言及し、解説、解釈を行う)
 殺害された人数が一名で死刑にしていけないわけではない。
 本件は、43万円を奪った強盗殺人、被害者に両下肢麻痺を負わせた強盗殺人未遂、強盗未遂、放火未遂である。
 被害者には全く落ち度は無い。
 Yは、半年間入院生活を送り、職場へ復帰の目処は立たない状況である。遺族の処罰感情は峻烈である。
 本件は上記永山判決の基準を満たす。極刑の適用を躊躇させるものは無い。極刑をもって望むしかないものである。
 求刑についてだが、被告人を死刑に処し、拳銃及び実包を没収するのが相当である。

 これで論告は終了し、裁判長が弁論期日を被告に確認して閉廷した。

 12時までの予定であり、ほぼ時間通りに終わった。
 論告では、検事は普通の声で喋っていたが、論告では随所に厳しい表現が見られた。
 開廷してから傍聴人が幾人か入廷していた。マスコミ関係者らしき人の姿もあった。
 被告は論告の間、検事の方を見ていた。目を閉じている事もあった。Xさんの遺族の遺族感情の部分に差し掛かると、幾度か微かに頷いていた。求刑を述べる辺りでは、視線を宙に彷徨わせていた。傍聴席に目を向ける事無く退廷したが、その時にも、被告に動揺や恐怖は見られなかった。今まで通りだった様に思えた。
 弁護人二人は、廊下で、「情状はあった方がいい」等と話をしていた。

事件概要  熊谷被告は主に以下の犯罪を犯したとされる。
1:2004年5月29日、神奈川県横浜市で強盗目的で中華料理店経営者を射殺した。
2:同年6月23日、東京都渋谷区の東京メトロ渋谷駅で強盗目的で駅員を銃撃して重傷を負わせた。
 その他、余罪多数。
 熊谷被告2004年6月26日に逮捕された。
報告者 相馬さん


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