恩赦

はじめに

 ここでは1947年に施行された現在の恩赦法によって、死刑囚に適用された恩赦の状況を記す。
 恩赦には国家的な祝い事の際に発令される政令恩赦と、個々の事情に照らして適用する個別恩赦がある。現在までに死刑囚に適用された政令恩赦は1952年のサンフランシスコ平和条約発効による恩赦のみで、その人数は13名とされている。個別恩赦は11名に適用さている。
 以下、政令恩赦と個別恩赦に分けて適用状況を記す。


政令恩赦

 先ほども述べたように、死刑囚に適用された政令恩赦は1952年のサンフランシスコ平和条約発効による恩赦のみである。恩赦は1952年から54年までに13名乃至15名に対して行われた。54年に恩赦になった者は、52年4月の恩赦発効時に刑が確定していなかった者である。この恩赦は、刑が未確定の者にも適用された。
 この恩赦が適用されたのは、いずれも殺人罪(刑法199条)及び尊属殺人罪(刑法200条・現在は廃止)で死刑が確定した者に限られている。当時同罪で確定していた死刑囚の殆どが、この恩赦で減刑されている。
 彼らが恩赦になった理由には、罪名が恩赦該当罪であることが絶対条件であるが、同じ殺人罪でも恩赦からもれた者もいるので、他の要素もあるようである。その要素としては、「改悛の情」や「被害者の数」ではないことだけは明白である。というのも、恩赦になった者の中には、犯行を悔悟しておらず、刑務所(宮城)で犯則を繰り返していた者も含まれていたり、8名を殺した者も含まれているからである。ちなみに52年4月に恩赦になった11名による総被害者(死者)数は29名である。
 逆に同じ殺人罪で、被害者も1名なのに、恩赦から洩れた者もいる。彼は終戦直後に強盗強姦罪で無期懲役の判決を受け、宮城刑務所に服役していたが、子供に会いたいために看守を殺害して逃走し、逮捕された者である。ここで彼を不利にするポイントとして、公安系公務員殺害(看守)と無期懲役の前科の2つがある。彼は恩赦から洩れてから2月もしないうちに、処刑された。


個別恩赦

 個別恩赦は、その名の通り個別に恩赦に該当する理由がある場合に行われる。しかし、恩赦に該当するほどの理由というのは法律上に死刑執行を行うのに問題がある場合(ケース1・2・3)や、政治的取引に関わるものなど、ごく限られたものにすぎない。
 一部恩赦の理由の分からない者もいるが、おおむね上に記した場合に限り個別恩赦が適用されているようである。

ケース1:公判記録の紛失
 1944年に樺太で起こった強盗殺人事件(戦時特例法による戦時強盗殺人罪)。
 該当者は知人が寝ているところを斧で殺害し、1060円を奪ったという典型的な強盗殺人事件で、1945年7月に死刑が確定した。
 しかし、翌月にはソ連が日本の領土に侵攻したため、該当者は身柄を札幌刑務所に移したが、公判記録は紛失してしまった。公判記録がないと、死刑執行は不可能である。
 1949年に中央更正委員会は、該当者の恩赦を決定した。(実際に恩赦になったのは翌年)

ケース2:少年法の改定
 該当者は犯行時17歳4月であったが、不良仲間を集めてある家に押し入り、住人の老婆とその知人を布団蒸しにし、家の中を荒らし回り、現金や物を奪った。布団蒸しにされた二人は、その間に窒息死した。
 該当者は公判中もふてくされ、反省の色を微塵もみせなかった結果、地方裁判所で死刑を言い渡された。1948年に控訴を取り下げ死刑が確定した。
 ところが、この年に少年法が改定され、死刑適用最低年齢が16歳から18歳に引き上げられたため、翌年その調整で恩赦になり減刑された。なお、このような恩赦で減刑されたのは全国で3名いた。

ケース3:共犯との量刑の均衡
 該当者は他の2名と共に農家に押し入って老婆を殺害して金や米を奪った。一審では共犯の一人を「主犯」と認定しながらも、3名に対して死刑。3名とも控訴したが、該当者だけ控訴取下で確定した。その後、主犯を含む2名は、高等裁判所で無期懲役に減刑された。これによって、主犯は無期懲役で、従犯が死刑という量刑の逆転が発生したのである。
 1950年に中央更正委員会は、該当者の恩赦を決定した。

ケース4:法案廃案の見返り
 1968年に国会で厳しすぎる再審の幅を、せめて死刑囚には広げようとする法案が提出されるが、与党はそれを拒否。しかし、その見返りとしてGHQ占領下に起訴された全国7名の死刑囚に対して積極的に恩赦を適用すると約束した。
 この7名とは、免田栄・西武雄・石井健治郎(以上福岡)、山本宏子・谷口繁義(以上大阪)、山崎小太郎・平沢貞通(以上宮城)である。
 いずれも強盗殺人罪で死刑が確定していた者であるが、山本及び山崎以外は冤罪が叫ばれている死刑囚ばかりである。しかも山本は精神に異常をきたしており、山崎は再審請求で延命してきたものの、高齢及び高血圧で死刑執行できる状態ではなかった。
 このうち、恩赦が適用されたのは山本(1969)、山崎(1970)、石井(1975)だけであった。石井の恩赦の見返りとして西が処刑されている。(ここらへんの事情は死刑囚列伝十三話を参照)

 以上見てみると、死刑囚本人の悔悟といったものは個別恩赦の対象になっていないことが分かる。しかし、悔悟を理由に恩赦請求する死刑囚はいつの時代も後を絶たないようだ。


(C)笑月


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